2017年10月14日土曜日

【第765回】『<日本人>の境界』(小熊英二、新曜社、1998年)

 自分自身が<日本人>であるということを意識するのは、外国を訪れたり、外国籍の方々とコミュニケーションをとる時に限られるのではないか。それほど<日本人>という概念は「私たち」に内面化しているものであり、この「私たち」という意識もまた曲者である。「私たち」が「私たち」という言葉を普段の生活の中で用いる際には、それはほぼ<日本人>を指しているからである。

 ことほど左様に<日本人>という「私たち」に内面化されたパラダイムを自覚することは難しい。本書では、国民国家の形成過程において<日本人>がどのように創造されたのかについて、日本という国土の境界領域における包摂と排除の歴史を基に論旨が展開されている。<日本人>という自明に思えてしまう概念をエポケーし、<日本人>を基にした現代の日本という国民国家を改めて考える上で適したテクストであろう。

 国民国家という言葉からは、ナショナリズムという概念を想起することも多いだろう。両者は親和性の高い概念であるが、著者は、その用いる主体によって、意味合いと受け手の印象が異なると指摘している。

 現在われわれは、ナショナリズムという言葉に反発を感じることが多い。だがその一方で、ナショナリズムが弱者によって担われたときには、必ずしも非難すべきものとは考えない。(中略)強者が排外と侵略のために掲げるナショナリズムと、弱者が独立と解放のために掲げるナショナリズムは、暗黙のうちに区別されているのである。(524頁)

 世紀が変わってから、その初年に起きた9・11が典型的な事例として、ナショナリズムという言葉が用いられることは増えているように思える。著者が指摘しているように、その言葉を強国が用いる、もしくは用い続けるとメディアや人々から非難される傾向がある。反対に、圧制や強制的な包摂からの独立としてのナショナリズムは共感とともに受け入れられるものである。やや古い事例であるが、ベトナム戦争時における世論の推移を想起すれば分かりやすいだろう。

 では、明治維新以後の日本という後発的な国民国家の形成過程において、<日本人>はどのように形成されたのか。著者は、633頁においてその特徴を三つに整理している。

①外部の脅威を意識して支配地域の確保を重視
②支配対象が近接地域で国境紛争と国民統合の要素が混入
③文化的劣位意識があるため「特殊」な文化を強制するしか依拠する権威がない

 ①は、ヨーロッパ、ロシア、アメリカ等の列強諸国による植民地化を避ける生存戦略である。とりわけ地理的に近いロシアの脅威にいかに対処するかという点で、有力な軍事拠点としての国土を本州から離れた地に確保することが求められた。

 したがって、②で挙げられているように、必要とされる新たな国土は、ヨーロッパやアメリカとは異なり、近接した地域にターゲットが絞られた。先発して国民国家が形成され植民地政策が行われた先進国とはこの点が異なり、国土の拡大戦略はあくまで受け身の対応となったのである。海外情勢への対応という変数に合わせるかたちで、沖縄、北海道、台湾、朝鮮半島といった地域が従属的に選ばれたのである。

 こうした地理的な近さは、文化面での統合という点で日本にとっては固有の難しい側面があった。つまり、儒教や仏教という「借り物」の思想をバックボーンに持っている国家にとって、その輸入元である国家に対して③にあるような劣位意識を持たざるを得なかった。そのため、普遍的な文化に頼らず、日本語の国語化と天皇というシンボルを活用し、国語の強制と天皇への忠誠を強いることで支配の論理を構築しようとしたのである。

 そのため、近代日本においては「ナショナリズムや人種主義は必ずしも政策決定の本質的動機であるとはかぎらず、むしろ他の動機による主張の表現形態にすぎな」かった(651頁)という側面があったことに留意するべきであろう。以上のような歴史的経緯を踏まえて、今の日本に生きる私たちに向けた著者の最後のメッセージをよく吟味するべきであろう。


 本書では、多くの人びとが「日本人」という言葉に込めた、さまざまな願望をみてきた。それは、たとえば精神の支配への欲望であり、国家資源としての計算であり、権利や幸福への期待であり、憎悪と失望の念であり、対話と共存の夢であった。こうした歴史から何を学ぶか、それは人によって異なるかもしれない。だがどのような立場の人であろうとも、今後の時代において、「日本人」にどのような意味をあたえるか、そしてその境界のあり方をどのように好走するかは、われわれの課題であるはずである。なぜなら国家とは、「日本人」とは所与の運命ではなく、それを決める権利は私たちの手の中にあるはずなのだから。(666~667頁)


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