前巻では、カエサルにおける、もしくはリーダーの持つ野心と虚栄とについて考えさせられた。ではカエサルにとっての野心とはどのようなものであったのか。野心とは何かを為すという意志であり、著者によれば、カエサルの野心は気宇壮大なもののようであった。
ラインとドナウの両大河を視野に入れたカエサルによって、ヨーロッパの形成ははじまったのである。小林秀雄も書いている。「政治もやり作戦もやり一兵卒の役までやったこの戦争の達人にとって、戦争というものはある巨大な創作であった」。ユリウス・カエサルは、ヨーロッパを創作しようと考えたのである。そして、創作した。だが、キケロに代表される首都ローマの知識人たちは、これもカエサルの私利私欲の追求としか見なかった。先見性は必ずしも、知識や教養とはイコールにはならないのである。(37~38頁)
「ヨーロッパ」を創り出そうとしたのがカエサルの意志であったと著者はここで主張している。もともと存在しないものに絵姿を与え、それによって他者をその夢に巻き込みながら人と組織を引っ張る存在がリーダーであろう。事細かに彼の考えを理解していた人々はあまりいなかったかもしれないが、彼の考えに基づくビジョン提示や戦術の指示に人々は動機付けられたのではないか。
著者はカエサルを好んでいるからか「私利私欲の追求」とは見なかったのであろうが、私利私欲もあったのではないか。政治とは、100パーセント公的なもので行うものではないように思う。しかし、自分にとっての実利もありながら、公的なビジョンの方により本気で信じていたのであろう。だからこそ、周囲が彼の提示する物語に惹きつけられ、新しいローマの政治体制の構築を実現できたのではないだろうか。
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