2017年10月22日日曜日

【第768回】『これからの「正義」の話をしよう』【2回目】(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010年)

 唐突なタイミングで衆院選が行われることとなった。やや不謹慎なのかもしれないが、政治は面白い。わくわくする。もちろん大事な選択であり、どの政党に入れるべきか、どのような見識を持った候補者に投票するべきかを真面目に考えたい。そう思った時に、本書を読み直そうと思った。

 改めて読み解いていくと、あれほど感銘を受けたのに内容をいかに忘れていたかに気づかされる。リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムという三つを軸にしながらの論理展開は読み応え十分である。ハーバードでの著者の講義をもとに書籍化しただけあって、ライブ感があって読みやすい。

 人間に特有の能力である言語は、快楽や苦痛を表現するためだけにあるのではない。何が正義で何が不正かを断じ、正しいことと間違っていることを区別するためにあるのだ。人間はそうしたことを沈黙のうちに把握してから言葉を当てはめるのではない。言語は、それを通してわれわれが善を識別し、熟考するための媒体である。(253~254頁)

 哲学とは、語ることとの親和性が高い。プラトンによるソクラテスの対話の物語を例に出すまでもないだろう。言語を「善を識別し、熟考するための媒体」と喝破した著者の定義にはハッとさせられる。月並みではあるが、言葉を大事にして使いたいと思った。

 帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気が無いならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない。(304頁)


 ロールズの「負荷なき自己」を批判した上で、負荷のある自己について語った箇所である。負荷のある自己とは、自分自身に責任を持ち、自分を形成するコミュニティの持つ歴史に対する責任をも持つ存在である。自国の文化や歴史に誇りを持ちながら、過去の自国の行動に伴う責任を無視しようとする考え方への痛烈な警句である。


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