2014年11月2日日曜日

【第367回】『超訳 ニーチェの言葉』(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、白取春彦訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年)

 ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』(『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(ニーチェ、氷上英廣訳、岩波書店、1967年))しか読んだことがない。考えさせられる部分も多いとともに、やや取っ付きにくい印象もあった。ために、彼の他の著作になかなか手を伸ばせなかった時に、数年前に流行した本書を思い出した。様々な書籍の中から、訳者が言葉を選んで編集した本書は、入門書として最適である。

 まずは『力への意志』から。

【001】初めの一歩は自分への尊敬から
 自分はたいしたことがない人間だなんて思ってはならない。それは、自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうようなことだからだ。
 そうではなく、最初に自分を尊敬することから始めよう。まだ何もしていない自分を、まだ実績のない自分を、人間として尊敬するんだ。
 自分を尊敬すれば、悪いことなんてできなくなる。人間として軽蔑されるような行為をしなくなるものだ。
 そういうふうに生き方が変わって、理想に近い自分、他の人も見習いたくなるような人間になっていくことができる。
 それは自分の可能性を大きく開拓し、それをなしとげるにふさわしい力を与えることになる。自分の人生をまっとうさせるために、まずは自分を尊敬しよう。

 他者を尊重するためにも、社会に対して貢献するためにも、まずは自分自身を尊敬することが大事だとニーチェは言う。反対に、自分自身を尊敬できない存在こそが悪人である。だからこそ、悪人がいかに自己を愛することができるかを周囲が支援することが重要であることを「【099】悪人には自己愛が足りない」でニーチェが述べていることに着目すべきだ。

 次に『さまざまな意見と箴言』から次の言葉を見てみよう。

【012】自分を遠くから見てみる
 おおかたの人間は、自分に甘く、他人に厳しい。
 どうしてそうなるかというと、自分を見るときにはあまりに近くの距離から自分を見ているからだ。そして、他人を見るときは、あまりにも遠くの距離から輪郭をぼんやりと見ているからなのだ。
 この距離の取り方を反対にしてじっくりと観察するようにすれば、他人はそれほど非難すべき存在ではないし、自分はそれほど甘く許容すべき存在ではないということがわかってくるはずだ。

 他人については、遠くから見るために悪いところを印象的に把握し、自分自身は近くから見るために甘く捉えてしまう。この傾向を踏まえれば、自分を遠くから客観的に離れて把握するようにすることが有効であることが分かるだろう。そうすれば、自分自身を厳しく眺めることができ、そうすることによって翻って、他者の良い点にも目が向くようになるのであろう。

 第三に『曙光』の言葉を取りあげたい。

【090】責める人はみずからをあらわにする
 誰かを責め立てる者、この人が悪いのだと強く言い張る者。その人はしかし、告発することで自分の性格を思わずあらわにすることが多い。
 第三者から見ると、汚く責め立てる者のほうこそ悪いのではないかと思えるくらいに低劣な性格をあらわにしてしまう。そのため、あまりにも激しく責める者こそ、周囲の人々から嫌われてしまうものだ。

 声を荒立てて他者を非難する人は、程度の差はあれども、身の周りにもいるだろう。彼らは、そうした行為によって自分自身の正義を正当化しようとしているのであろうが、周囲は必ずしもそのように取らない。どんなに正当に責め立てていると本人が思っていようと、周囲は責め立てている人に非があるのではないかと考えるものである。自戒を込めて、意識したい点である。

【212】現実と本質の両方を見る
 目の前の現実ばかりを見て、そのつどの現実に適した対応をしている人は確かに実際家であり、頼もしくさえ見えるかもしれない。
 もちろん、現実の中に生き、現実に対応することはたいせつだ。現実は蔑視すべきものではないし、現実はやはり現実なのだから。
 しかし、物事の本質を見ようとする場合は、現実のみを見ていてはならない。現実の向こう側にある普遍的なもの、抽象的なものが何であるのか、つかまえることのできる視線を持たなければならないのだ。あの古代の哲学者プラトンのように。

 現実と本質。どちらかを大事にするということではなく、どちらとも大事にし、両者を重んじて行動することが私たちには求められているのであろう。

 最後に、『人間的な、あまりに人間的な』から引用していく。どうやら私は、この書籍が好きなようで、七つもの言葉にマークを付けていた。

【027】朝起きたら考えること
 一日をよいスタートで始めたいと思うなら、目覚めたときに、この一日のあいだに少なくとも一人の人に、少なくとも一つの喜びを与えてあげられないだろうかと思案することだ。
 その喜びは、ささやかなものでもかまわない。そうして、なんとかこの考えが実現するように努めて一日を送ることだ。
 この習慣を多くの人が身につければ、自分だけが得をしたいという祈りよりも、ずっと早く世の中を変えていくことだろう。

 私の学術上の恩師も、朝目覚める時と夜寝る時に、感謝していることを考えると言っていた。一日の始まりの時に、他者に与えられる喜びについて考えることを、私も心がけ、習慣にしたい。

【044】職業がくれる一つの恵み
 自分の職業に専念することは、よけいな事柄を考えないようにさせてくれるものだ。その意味で、職業を持っていることは、一つの大きな恵みとなる。
 人生や生活上の憂いに襲われたとき、慣れた職業に没頭することによって、現実問題がもたらす圧迫や心配事からそっぽを向いて引きこもることができる。
 苦しいなら、逃げてもかまわないのだ。戦い続けて苦しんだからといって、それに見合うように事情が好転するとは限らない。自分の心をいじめすぎてはいけない。自分に与えられた職業に没頭することで心配事から逃げているうちに、きっと何かが変わってくる。

 偉大な哲学者や社会学者が職業についてなにを語るか、に私は興味を持っている。ニーチェは、職業を持つことが恵みであるとする。没頭して職業に臨むことが、心を集中させ、僥倖をもたらすという考え方は、面白い。

【067】虚栄心の狡猾さ
 人間が持っている見栄、すなわち虚栄心は複雑なものだ。
 たとえば、自分の良からぬ性質や癖、悪い行動を素直に打ち明けたように見える場合でさえ、そのことによってもっと悪い部分を隠してしまおうという虚栄心が働いていることがままあるからだ。
 また、相手によって、何をさらけだしたり何を隠すのかが変るのがふつうだ。
 そういう眼で他人や自分をよく観察すれば、その人が今、何を恥じ何を隠し、何を見せたがっているのか明瞭にわかってくる。

 悪い点を隠そうという人間の本質を見極めた上で、そうした行為を取ろうとする他者の心理状況を把握する。他者を理解し、他者に快く動いてもらうという観点では、マネジメント行動にとっても有効な考え方ではないだろうか。

【135】持論に固執するほど反対される
 持論というものを強く主張すればするほど、より多く人から反対されることになる。
 だいたいにして、自分の意見に固執している人というのは、裏側にいくつかの理由を隠し持っていたりする。たとえば、自分一人のみがこの見解を思いついたとうぬぼれている。あるいは、これほど素晴らしい見解にまでたどりついた苦労を報いてもらいたいという気持ちがある。あるいは、このレベルの見解を深く理解している自分を誇りにしている、というふうな理由だ。
 多くの人は、持論を押す人に対して、以上のようなことを直観的に感じて、そのいやらしさに生理的に反対しているのだ。

 自分自身の持論を声高に述べる人がある。そうした人々は、心の底から自分が信じている主張を素晴らしいものだと思っているようだ。そこには純粋な気持ちがあると同時に、どこかで、そうした世界観を認めない他者を否定し、自分自身を肯定しようという思いがあるように見受けられる。そうした気持ちが、他者に伝わるために、他者から認められないのではないか。

【140】怠惰から生まれる信念
 積極的な情熱が意見を形づくり、ついには主義主張というものを生む。たいせつなのは、そのあとだ。
 自分の意見や主張を全面的に認めてもらいたいがために、いつまでもこだわっていると、意見や主義主張はこちかたまり、信念というものに変化してしまう。
 信念がある人というのはなんとなく偉いように思われているが、その人は、自分のかつての意見をずっと持っているだけであり、その時点から精神が止まってしまっている人なのだ。つまり、精神の怠惰が信念をつくっているというわけだ。
 どんなに正しそうに見える意見も主張も、絶えず新陳代謝をくり返し、時代の変化の中で考え直され、つくり直されていかなければいけない。

 信念を持っている人は好もしく見えるものだ。たしかに、信念は、絶え間ざる努力の結果として得られる主張であり、それ自体は素晴らしいものだと思う。しかし、そればかりに固執してしまうと、そこから人は抜け出られなくなる。ここでの論点は、固執することによって先述した「【135】持論に固執するほど反対される」のような悪い影響を及ぼすこともあるのかもしれない。

【157】新しく何か始めるコツ
 たとえば勉強でも交際でも仕事でも趣味でも読書でも、何か新しく事柄にたずさわる場合のコツは、最も広い愛を持って向き合うことだ。
 つまり、いやな面、気にくわない点、誤り、つまらない部分が目に入ったとしても、すぐに忘れてしまうように心がけ、とにかく全面的に受け入れ、全体の最後まで達するのをじっと見守るということだ。
 そうすることで、ようやく何がそこにあるのか、何がその事柄の心臓になっているのかがはっきりと見えてくるだろう。
 好き嫌いなどの感情や気分によって途中で決して投げ出さない。最後まで広い愛を持つ。これが、物事を本当に知ろうとするときのコツだ。

 とかく何かをやり始めるとできない自分に嫌気がさして辞めてしまうものだ。年を取れば取るほど、そうした傾向は一般的にあるのではないか。そうしたときに、広い心を持って臨むこと。深みのある考え方ではないだろうか。

【185】古典を読む利益
 おおむね読書はたくさんの益をもたらしてくれる。古典は特に滋養に富んでいる。
 古い本を読むことで、わたしたちは今の時代から大きく遠ざかる。まったく見知らぬ外国の世界に行くこともできる。
 そうして現実に戻ったとき、何が起こるか。現代の全体の姿が今までよりも鮮明に見えてくるのだ。こうしてわたしたちは、新しい視点を持ち、新しい仕方で現代にアプローチできるようになる。行き詰まったときの古典は、知性への特効薬だ。

 まさに、温故知新である。洋の東西を問わず、重要な考え方であることの一つの証左であろう。

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