哲学書は難しい。とにかく読み解くのに時間が掛かるし、おおよそ理解できない。ハイデガーの著作も同様である。解説書でさえ、難渋する。『ニーチェが京都に~』で興味を持って本書を読んでみたが、面白く読めるところもあれば、理解できない箇所もあった。
哲学書はなぜ難しいのか。正確に言えば、哲学者はなぜ難しく語るのか。その理由は、端的に以下の箇所に表れている。
ハイデガーはひたすら道を開き、その新しい道をたどるよう、ぼくたち読者を喚起した。(中略)道を開き、歩くようほどこすのが哲学の仕事。だが、道は自分で歩め。まっ暗なトンネルをぬけると、そこは雪国。一面の銀世界がまっている。道をたどりトンネルをぬければ、どなたもそこへゆきつく。だから、ほこらしげに雪国のすばらしさを語る必要もない。そんなことより、まっ暗なトンネルをぬける勇気をあたえ、むこうへわたる道をつくり、道標を立て、そこへいざなうこと。それが、ハイデガーの執筆や講義のスタイルなのである。根っからの教師、あるいは導師だといえよう。(65~66頁)
おそらく、私たちは、簡単なことや易しいものを求めすぎているのかもしれない。理解できないもの、解釈が難解なものは、時間やコストが掛かるものであり良い存在ではないと看做してしまう。
しかし、果たしてこうしたマインドセットで臨むことが望ましいのか、と著者はハイデガーに引きつけて警句を述べている。この箇所を読み、私は考え込んでしまった。分からないことは気持ち悪い、しかし結果的に分からなかったとしても分かろうと努める営為の中にこそ、学びはあるのではないか。哲学書をはじめとした「難しい」書籍の存在価値は、読むという過程の中にあるのかもしれない。
【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)
【第891回】『誰にもわかるハイデガー』(筒井康隆、河出書房新社、2018年)
【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)
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