幕末の長州に生まれ稀代の軍略家と言われた大村益次郎。一介の村医者が、人との出会いを通じて場所や役割を変化し続け自身の本分を見出していく様は、天職を創り込んでいくような過程のように受け取れる。
益次郎の医者として、とりわけ蘭医としての師匠は適塾の緒方洪庵である。勉学に励み、適塾の塾頭にまでなった益次郎にとって、緒方洪庵から受けた影響は大きいのだろう。となれば、緒方洪庵がどのような人物であったかが、益次郎の人間性の主要な一部を形成したと考えられる。
なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。(中略)洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になって人をすくおうと志したという。その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであった点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。(24~25頁)
自身の立身出世のためではなく、他者を救うために医者を志した緒方洪庵の志は、益次郎にも影響を与えたのだろう。のちに宇和島藩から長州藩へと藩替えをする際には、現代でいうところの役職や給与の大幅なダウンであったが、信頼する桂小五郎を信じて不平も言わずに受け入れている。
こうした他者のためという意識は、目的のためには手段を変えることを厭わない益次郎のマインドセットにも繋がっているようだ。著者自身が、「筆者は、村田蔵六をとおして日本人を考えようとしているのかもしれない」(405頁)と述べているように、そのような精神性は<日本人>という大きなものにも繋がる可能性がある。技術を手段として捉える考え方について、やや長いが以下に引用する。
「才」
とは、日本にあってはあくまでも右の意味での道具であった。儒教を「才」とした千数百年のあいだも、べつに冠婚葬祭という生活思想や習慣までシナ式になったわけではなく、シナ人そのものになったわけではない。単に道具であったために、
「漢才はもう古い」
ということになったとき、古いスキでもすてるような愛着のなさで捨ててしまったのである。
「これからは蘭才の時代である」
というようになって、蔵六らは大いに時代の需要のなかでときめいたが、しかしそのときめきのなかで、
「そろそろ蘭才は古道具になってしまったのではないか、これからは英才ではないか」
ということが、蔵六ら蘭学者自身、みずからの持ち学問の時代における鋭利さにうたがいを感ずるところから、早くもささやかれはじめた。道具の新旧感覚であった。(405~406頁)
さらに意識を新たにしたのは攘夷という当時の思想についてである。生まれ故郷であり、最終的にその藩士として活動する益次郎も攘夷主義を抱いている。蘭医であり、外国人との交流も行なっていた益次郎のこうした主義思想には意外な思いを持っていたが、以下のような攘夷主義の捉え方であれば頭では理解可能な部分もある。
人の主義は気質によるものだが、蔵六にとってもこの攘夷という気分は生来のものであった。その固有の気分の上に、かれは自分の理論をうちたてた。攘夷という非合理行動によって、日本人の士魂の所在を世界に示しておく必要がある、というものであった。(466頁)
自身の生来の心情がベースとなっていながら、欧米列強の植民地として国を分割させられた清国の例から学び、このような考え方をするのは、益次郎の軍略家のなせる思考方法なのかもしれない。
【第320回】『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第321回】『世に棲む日日(二)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第322回】『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第323回】『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
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