2018年12月29日土曜日

【第916回】『花神(下)』(司馬遼太郎、新潮社、1976年)


 大村益次郎という人物は、教科書にも出てこないし、幕末を描く歴史ドラマでも端役に近い描かれ方をする。戊辰戦争で東進して江戸城無血開城を成し遂げたのは西郷隆盛であり、その後はなし崩し的に官軍が勝利したかのように私たちは理解してしまう。NHK大河ドラマ「西郷どん」でも、益次郎は無血開城後のワンシーンで数秒後に登場しただけである。

 しかし、倒幕軍の総司令官としての益次郎が存在しなかったらどうなっていたのであろうか、と本書を読むと思わざるを得ない。よく言われているように、鳥羽・伏見においても幕府軍の勢力は官軍より大きく優位であったし、無血開城がなければ江戸における勢力図も怪しかった。

 したがって、無血開城以後においても幕府軍が盛り返す可能性は潜在的に高く、徳川幕府に近かった会津や奥羽の諸藩との闘いは予断を許さなかったのである。そうした状態の中で、江戸と離れた官軍の本拠地である京都とも連携を取りながら戦略を練った益次郎の力量に拠るところは大きい。

 それほどの人物がなぜ目立つことなく人生を終えたのか。暗殺による突然の死もその原因の一つであろうが、仕事への取り組み姿勢にあったようだ。

 ある仕事にとりつかれた人間というのは、ナマ身の哀歓など結果からみれば無きにひとしく、つまり自分自身を機能化して自分がどこかへ失せ、その死後痕跡としてやっと残るのは仕事ばかりということが多い。その仕事というのも芸術家の場合ならまだカタチとして残る可能性が多少あるが、蔵六のように時間的に持続している組織のなかに存在した人間というのは、その仕事を巨細にふりかえってもどこに蔵六が存在したかということの見分けがつきにくい。(542頁)

 著者が「あとがき」で述べているこの箇所を読むと、仕事への取り組みとはどのようにあるべきかを考えさせられる。適切なマインドセットで、目の前の仕事に取り組み続けること。大村益次郎という人物から、現代を生きる私たちが学ぶことは多いのではないだろうか。

【第320回】『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第321回】『世に棲む日日(二)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第322回】『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第323回】『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

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