2018年12月22日土曜日

【第914回】『アンダーグラウンド』(村上春樹、講談社、1999年)


 1995年の地下鉄サリン事件で被害に遭われた方々およびその遺族の方々に著者が丹念にインタビューを重ねたノンフィクション。小説とも、随筆とも異なる、著者の筆致に惹きつけられる。

 1995年3月20日は、多くの人々にとって「見分けのつかない、人生の中のただの一日だった」(32頁)はずの一日であり、それは被害者や遺族の方々にとっても同様である。連休の狭間の通勤時に、都内の「アンダーグラウンド」で何が起きたのか。インタビューを通じて著者が紡いだ仮説は、発生して二十年以上が経つ現代社会においても、重くのしかかるものである。

 私たちがこの不幸な事件から真に何かを学びとろうとするなら、そこで起こったことをもう一度別の角度から、別のやり方で、しっかりと洗いなおさなくてはいけない時期にきているのではないのだろうか。「オウムは悪だ」というのはた易いだろう。また「悪と正気とは別だ」というのも論理自体としてはた易いだろう。しかしどれだけそれらの論が正面からぶつかりあっても、それによって<乗合馬車的コンセンサス>の呪縛を解くのはおそらくむずかしいのではないか。(739頁)

 オウム=悪をあちら側に置き、一般市民=善をこちら側とを対比的に論じようとしたメディアの構図を著者は否定的に捉える。正しいか誤っているかの話ではなく、こうした構図で描くことによってこぼれ落ちるものを危惧しているのである。こうした二項対立によって何を私たちは見落としてしまうのか。

 ひとつの鏡の中の像は、もうひとつのそれに比べて暗く、ひどく歪んでいる。凸と凹が入れ替わり、正と負が入れ替わり、光と影が入れ替わっている。しかしその暗さと歪みをいったん取り去ってしまえば、そこに映し出されている二つの像は不思議に相似したところがあり、いくつかの部分では呼応しあっているようにさえ見える。それはある意味では、我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフェイズから排除し続けている、自分自身のうちなる影の部分(アンダーグラウンド)ではないか。私たちがこの地下鉄サリン事件に関して心のどこかで味わい続けている「後味の悪さ」は、実はそこから音もなく湧き出ているものではないのだろうか?(744頁)

 私たちは、あちら側とこちら側に分けることで、その構造を創り出しているものを包み隠そうと無意識にしているのかもしれない。反対にいえば、包み隠そうとして隠せなかったものを暴き出したオウム真理教、および彼らが起こした事件に対して、「後味の悪さ」を感じるのであろう。オウムを排除してこちら側を守ろうとするのは、「私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な敗退」(766頁)を見えないようにするためだったのであろうか。

 では「「こちら側」のシステム」が守ろうとしていたものは何か。

 私が深く危機感を感じるのは、当日に発生した数多くの過失の原因や責任や、それに至った経緯や、またそれらの過失によって引き起こされた結果の実態が、いまだに情報として一般に向けて充分に公開されていないという事実である。言い換えれば「過失を外に向かって明確にしたがらない」日本の組織の体質である。「身内の恥はさらさない」というわけだ。その結果、そこにあるはずの情報の多くは「裁判中だから」とか、「公務中のできごとなので」というわかったようなわからないような理由で、取材を大幅に制限される。(769頁)

 まず社会システムについては、『ねじまき鳥クロニクル』を書く際にノモンハンを調べた著者ならではの、旧日本陸軍に典型的に現れた「閉塞的、責任回避型の社会体質」(770頁)が挙げられる。

 たしかに、戦争が終わって半世紀以上が優に経ち、技術も考えられないほどに進展した。環境の変化に合わせて日本人も、日本の組織も変わった…はずである。しかし、日本人も、日本の組織も、必ずしも変わらない側面を持ち続けているのかもしれない。それは否定するものでも肯定するものでもないが、私たちが見たくない「不都合な真実」とでも呼べるものなのかもしれない。そうした「不都合な真実」が地下鉄サリン事件で顕在化したため、私たちは「後味の悪さ」を感じながら、あちら側を否定しこちら側を肯定しようと躍起になったのだろう。

 組織レベルだけではなく、個人レベルでも私たちが隠そうとしたものがあるとして、著者は以下のように述べる。

 私が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の中で「やみくろ」たちを描くことによって、小説的に表出したかったのは、おそらくは私たちの内にある根源的な「恐怖」のひとつのかたちなのだと思う。私たちの意識のアンダーグラウンドが、あるいは集団記憶としてのシンボリックに記憶しているかもしれない、純粋に危険なものたちの姿なのだ。そしてその闇の奥に潜んだ「歪められた」ものたちが、その姿のかりそめの実現を通して、生身の私たちに及ぼすかもしれない意識の波動なのだ。(774頁)

 集団記憶として持っている恐怖というのが著者の仮説的な結論であるが、いかがであろうか。

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【第897回】『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』(村上春樹、新潮社、2017年)
【第802回】『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹、新潮社、2005年)
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【第792回】『1Q84 BOOK2』(村上春樹、新潮社、2009年)
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