2018年1月27日土曜日

【第802回】『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹、新潮社、2005年)

 二つの異なる世界は、物語の冒頭では全く異なるようであり、読み進めるのが難解だ。しかし、読者が読み取れるように細かなヒントを散りばめ、徐々に二つの物語が一つに収斂していく様は見事である。収束していくにつれて、私たちは怒涛のように読み進められるが、私個人としては、想像している方向性とは真逆の結末で驚かされた。

 おそらく、読者が本作を読む場合、どちらかに肩入れをして主従関係を作り出してしまうのではないだろうか。世界を作る側が生きる世界である「ハードボイルド・ワンダーランド」と、作られた側の世界である「世界の終り」。私の場合は、前者を主として後者を従と見做して、読み進めていたために、最後の最後に驚きをおぼえたのである。

 このように解釈すれば、読むタイミングによって、どちらの世界の主人公に共感し没入するかは異なるのであろう。改めて読んでみて、自分自身の読後感を読み比べたいものである。

「いや違うね。親切さと心とはまたべつのものだ。親切さというのは独立した機能だ。もっと正確に言えば表層的な機能だ。それはただの習慣であって、心とは違う。心というのはもっと深く、もっと強いものだ。そしてもっと矛盾したものだ」(241頁)

 世界の終りでの住民は、その世界に入るタイミングで影を失い、心を失うことになる。しかし、心を失った人々の間での交流は、寒々しいものでは必ずしもない。そこで主人公は、親切さも心の一部なのではないかと考えるのであるが、それを住民から上記のように反論される。

 「親切心」という言葉もあるくらいなので私も親切さとは心の一部だと思っていたし、今でもそう思いたい気持ちもある。しかし、親切というものは、必ずしも心と全くイコールであるかというとそうではないようだ。ここで述べられている表層的というのは頭で考えて他者の目線を気にしているということを含意しているように思える。


 このように捉えると、自分自身の親切な行動として想起するものには、心からだけのものではなく、頭で考えて第三者を意識した客観的なものになっているように思えるのだが、いかがであろうか。


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