2018年12月16日日曜日

【第913回】『花神(中)』(司馬遼太郎、新潮社、1976年)


 中巻では、攘夷を至上命題とする革命勢力と化した長州藩の藩士として活動を本格化させ、反幕戦争に至るまでが描かれる。攘夷という思想が持つ排外的な側面を現代において理解することは極めて難しいが、なぜ天皇という存在を中心として社会への変革を目指したのかは興味深い。

 反幕攘夷家たちは、日本の中心を天皇という、単に神聖なだけの無権力の存在に置こうとした。天皇を中心におきたいというこの一大幻想によってのみ幕藩体制を一瞬に否定し去る論理が成立しえたし、それによってさらには一君万民という四民平等の思想も、エネルギーとして成立することができた。(15~16頁)

 権力の主体を替えることにより身分制度の一新を狙う。国民皆兵を先取りするかのように、武士階級以外の戦闘能力化を先んじて行った長州藩の発想の基底には、身分制度の打破があったという著者の捉え方は納得的である。

 蔵六のいう、
「正義をあまねく及ぼす戦いである」
 ということが、兵士たちにも徹底していた。長州藩でいう正義とは、革命と同義語である。長州藩はすでに藩内においても庶民軍をもって上士軍を圧倒し、藩内革命を遂げたが、その成果を他藩に及ぼそうという意識がつよかった。(508頁)

 他藩からすれば余計なお世話と思えるような発想ではある。しかし、こうした思想のレベルで熱狂している集団の持つエネルギーの強さとも言えるのかもしれない。

【第320回】『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第321回】『世に棲む日日(二)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第322回】『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
【第323回】『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

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