2014年8月12日火曜日

【第321回】『世に棲む日日(二)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

 引き続き、前半では吉田松陰に焦点が当たりながら、次第に高杉晋作へとこの小説の主人公は移行して行くのが、この第二巻である。

 「余はむしろ、人を信ずるに失するとも、誓って人を疑うに失することなからんことを欲す」
 かれはその「失点」の上にひらきなおってそのような自分をつくりあげてきた。人を信ずる以上、相手に見さかいがあってはならない。ついには幕府の取調役人までを信じてしまい、訊かれもしていない自分の罪状を大いにのべてしまうあたり、もはやこの若者が常人であるのかどうか、うたがわしくなってくる。(156~157頁)

 松陰が死罪になる際の幕吏とのやり取りを、著者はこのように総括する。狂に生き、狂に死ぬ。憧れはするものの、こうした生き方は私にはできない。今の時点ではこのように思っている。

 「僕は去年の冬以来、死というものが大いにわかった。死は好むべきものにあらず、同時に悪むべきものでもない。やるだけのことをやったあと心が安んずるものだが、そこがすなわち死所だ、ということである。さらにいまの私の心境は決して不朽の見込みあらばいつでも死んでいい。生きて大業の見込みあらばいつでも行くべし」(163~164頁)

 狂に生きるとは、徒に死を求めるということではない。やるべきことをやったら、あとは生き死には関係がないという死生観は現実的であり、それと同時にやることはやるという強い自負でもある。

 その松陰が、死んだ。松陰が死んでやっと三月しか経たず、時代情況も変っていないのに、その志の継承者をもって任ずる晋作は、松陰の死から出発した。かれは無造作に飛躍し、
 (幕府など、倒してしまうべきだ)
 と、感情として思い、論理によらずして決意するにいたっている。継承というもののふしぎさというべきものかもしれない。(196頁)

 松陰が刑死し、その倒幕の思想は、理論付けがないにも関わらず高杉晋作へと継承される。この小説の主人公も松陰から晋作へと移るのであるが、松陰の思想が晋作を、そして長州藩を死した後も影響を与えることとなる。では、なにが晋作をして幕末の活動家として表舞台へ導いたのか。

 思想というのは要するに論理化された夢想または空想であり、本来はまぼろしである。それを信じ、それをかつぎ、そのまぼろしを実現しようという狂信狂態の徒(信徒もまた、思想的体質者であろう)が出てはじめて虹のようなあざやかさを示す。思想が思想になるにはそれを神体のようにかつぎあげてわめきまわる物狂いの徒が必要なのであり、松陰の弟子では久坂玄瑞がそういう体質をもっていた。要は、体質なのである。松陰が「久坂こそ自分の後継者」とおもっていたのはその体質を見ぬいたからであろう。思想を受容する者は、狂信しなければ思想をうけとめることはできない。
 が、高杉晋作という人物のおかしさは、かれが狂信徒の体質をまるでもっていなかったことである。(中略)
 晋作は思想的体質でなく、直感力にすぐれた現実家なのである。現実家は思想家とちがい、現実を無理なく見る。思想家はつねに思想に酩酊していなけれならないが、現実家はつねに醒めている。というより思想というアルコールに酔えないたちなのである。(199~200頁)

 狂に生きる思想家としての松陰を継いだのが久坂玄瑞であり、現実家として引き継いだのが高杉晋作であった、と著者は対比的に論じている。狂という意識を継ぎながらも、狂を醒めながら実践する。思想というアルコールのような存在に酔えずに、現実的に生きるという姿勢に、感銘を受ける。

 ーーおれに一体、なにができるのか。
 という、自問することすらおそろしい課題についてである。というより、自分は何事もこの世で為すことのない不能の人物ではないかというおそれと不安と懐疑とが、晋作を、叫びだしたいような心境にさせている。(215頁)

 狂心的な思想に酔える性質の人々は持たないであろう、現実家ならではの苦悩の発露と言えるだろう。現実的に対応できるというのは、現実に合わせるということと近いように一見思える。したがって、現実ばかりを見ていて、自分自身の内奥にある想いがないのではないか、という悩みを持つことになる。特に、周囲にそうした狂信的な存在がいれば、そうした悩みは大きくなる。松陰のもとで、玄瑞とともに学ぶという環境を考えれば、現実家である晋作の悩みは想像に難くない。しかし、現実家であったからこそ、明治維新へと繋がる革命を起こす推進力となった。

 「攘夷。あくまで攘夷だ」
 といったのは、攘夷というこの狂気をもって国民的元気を盛りあげ、沸騰させ、それをもって大名を連合させ、その勢いで幕府を倒すしか方法がないと知ったのである。開国は、上海を見ればもはや常識であった。しかし常識からは革命の異常エネルギーはおこってこないのである。(294~295頁)

 晋作は、攘夷という思想に狂うのではなく、狂信的な勢いを持てる攘夷という思想を革命のエネルギーに変えるという冷静な戦略を構想していた。現実家であるからこそ、狂を手段として用いるという構想ができたのであろう。

 この男は、上海から帰ってきて早々、日本革命の大戦略をたてた。その大戦略の基本には、
 ーー長州藩はほろんでもいい。
 という覚悟がよこたわっており、むしろ長州一藩をほろぼすことによって日本革命を樹立し、死中に活を得ようというのが晋作のひそかな戦略構想であった。結局、事態は晋作のおもうように進行し、やがて覚悟の前の自滅寸前の現象がおこり、ほどなくして維新が成立した。長州藩でこれだけの構想力をもっていたのは、高杉晋作以外にはない。(300~301頁)

 まず前提として、高杉晋作は長州藩、とりわけ藩主に対する忠誠心が非常に強い人物である。藩主に近い位置で代々仕えてきた高杉家の矜持を多分に引き継いだ存在なのである。そうであるにも関わらず、愛着が人一倍強い長州藩をつぶしてでも、革命を起こそうという大戦略を構想していたというのだから、現実家と言えども単なる現実迎合派ではない。狂を現実に落とし込むという類い稀な戦略家であったと言えるだろう。

『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

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