リーダーシップ開発の重要性を仕事の中で感じている身として、副題が「反リーダーシップ論」と銘打たれている本書には興味があった。私の印象としては、著者が否定しているリーダーシップは、いわゆるヒロイック・リーダーと呼ばれる、自分自身が正解を持ち野心的な目標を立てて周囲を引っ張るようなリーダーである。したがって、結果的には共感しながら読めた本であった。
上司の命を待つのではなく、一人ひとりがじぶんで考え、タフに行動する組織がいちばん活力がある。そういう意味では、逆説的な言いまわしになるが、リーダーがいなくてもいい組織を作れるのが真のリーダーだということにもなるかもしれない。(中略)そうだとするとポイントは、リーダーそのひとではなくて、むしろ、仕事をまかされたメンバーがそれぞれに気持ちよく気張れるよううまく調整をするひと、つまりは番頭のような二番手のひとだということになる。(152~153頁)
著者が否定していたのは、現代における組織において、ヒロイック・リーダーのようなリーダーに対して依存したくなる私たちの傾向でありリーダーシップそのものではない。だからこそ、一人ひとりがそれぞれ他者に影響を与え合いながら、一人ではできない大きなことを成し遂げようとするリーダーシップは重要である。さらに言えば、お互いが認め合うことで、時には他者を支えるフォロワーシップの重要性を著者は指摘しているのである。これが番頭を指しているのであろう。
専門知というのは、それが適用される現場で、いつでも棚上げにできる用意がなければ、プロの知とはいえないものである。専門知は、現時点で何が確実に言えて、何が言えないか、その限界を正確に掴んでいなければならない。しかし、現場にいるひとの不安や訴えのなかで、自身の判断をいったん括弧に入れ、問題をさらに聴きなおすこと、別の判断と摺り合わせたうえでときにそれを優先させることもしなければならない。ここでは、「この点からは」「あの点からは」という複雑性の増大にしっかり耐えうるような知性の肺活量が必要となる。こうした二様の知性をパラレルに働かせることを、いずれの分野であれ、いまのプロフェッショナルは求められている。(107~108頁)
誰もがリーダーシップを発揮し、フォロワーシップと相俟って変化に対応しようとする組織においては、専門知の捉え方も以前と異なってくる。いわゆる専門バカのように、自分の保有する知識にだけ造詣があれば良しとされる時代ではなく、他の専門家の主張を理解し、協働できることが求められるのである。
一般に、制度化された組織では、なすべきことはその分類にしたがってどんどん細分化され、規律化されてゆく。先にもみたトランスサイエンス的な状況においては、それらの間隙を見過ごさないこと、それらをたがいに瓦のように重ね合わせてゆくことが求められる。そのときはたらく知性は、つねに問題の全体をケアするものでなければならない。いいかえると、融通のきかない専門家主義のソリッドな知性に対して、みずからに割り当てられた業務を超えて、他者を案じ、全体に気を配りつつ、そのつどの状況に可塑的に対応できるリキッドな知性こそが、ここでは験しにかけられる。あるいは、既定の制度からは見えない存在、外れてしまう存在、それにも応答してゆこうとするのが「知性の公共的使用」のことだといってもよい。(125頁)
他者と協働するための条件として、私たちにはリキッドな知性が求められる。専門知は必要条件である。それがなければ、他者に提供できるものがなくなってしまうからだ。しかしそれだけでは足りない。専門知を持つ者同士が対話し、協働するためには、しなやかで柔軟な知性が求められるのである。
【第743回】『暮らしの哲学』(池田晶子、毎日新聞社、2007年)
【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)
【第291回】『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)
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