文学者や文芸評論家といった専門の方々がどう読まれるかはわからないが、漱石好きの素人としては面白おかしく読めた。長編小説を網羅的に扱ってくれているため、このような読み方があるのだなぁと感心しながら、興味深く読める。
著者たちの読解が全て正しいとはさすがに思わないが、首肯する部分がとても多い。小難しく捉えない普通の漱石好きであれば、新たな視点や読み解き方に出会い、また読み直したくなるのではないだろうか。
小森 登場人物Aが手紙を書いて、それを小説のなかで読んでいるのは別の登場人物B。しかし、Aが書いた「汝」に読者がなることによって、読者はBの位置に立てる。
石原 そういうことなんです。
小森 つまり登場人物についての小説を読みながら読者がその人物を演じていく、そういう小説内世界への読者の参加の道筋を意識的に開いているのではないかという話でしょう?(28頁)
『文学論』を基に、漱石が後期三部作で盛んに用いた手紙というメディアを用いる効用を解説しているところに唸った。手紙が出てくる漱石の小説は私が特に好きな作品であり、なぜそこに惹かれるのかの理由が、この部分を読んでよくわかった。それとともに、こうした手法が『文学論』で既に触れられていたということに驚く。
石原 読者が想像力を働かせる空間がぐんと広がった。考えてみれば、『彼岸過迄』は語りの当事者性が奪われた小説です。逆に、その語りの当事者性がもろに出てきたのが『こころ』です。『彼岸過迄』『行人』『こころ』の流れを語りの当事者性で切ってみると……
小森 その読み込み方は面白い。
石原 『行人』は脇にいた人でしょう。『こころ』は本人が語る。
小森 『行人』は脇にいた人がどんどん当事者性を突きつけられていく。
石原 巻き込まれていくということを、全部話が終わってから傍から語る。語りの当事者性をめぐる実験をおこなっている感じがします。その発端となった『彼岸過迄』はいろんな方法意識の玩具箱みたいになっていて、何が出てくるかわからない面白さがあるわけですね。(238頁)
手紙を書いた主体によって、その印象が変わるというのだから面白い。恥ずかしながら、そこまで全く意識して読んでいなかったが、なるほど、思い返してみると印象が異なるように思える。後期三部作を改めて読み直したい。
【第565回】『彼岸過迄【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1912年)
【第566回】『行人【2回目】』(夏目漱石、青空文庫、1913年)
【第567回】『こころ【3回目】』(夏目漱石、青空文庫、1914年)
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