2017年11月23日木曜日

【第779回】『漱石論集成 増補』(柄谷行人、平凡社、2001年)

 万人に推奨する書籍ではない。しかし、著者の他の書籍が好きで、かつ漱石を読破している方にはオススメのコアな一冊。「こういう読み方があるのか」「この作品とあの作品はこのように繋がっているのか」といった知的興奮に満ちた読書経験に誘われることだろう。

 『行人』の前半では、われわれはいまにも三角関係が行きつくところまで行くようなスリルを感じる。しかし、なにごとも起らないばかりか、弟の二郎の方も「自己と周囲と全く遮断された人の淋しさを独り感じ」る男になっている。小説は唐突に一郎の内的世界に移行してしまい、嫂の問題は忘れ去られてしまうのである。これは『門』の宗助が妻をそっちのけにして参禅してしまうのと同じことである。『夏目漱石』のなかで、江藤淳はそれを他者からの遁走であり、自己抹殺=自己絶対化の論理であると批判している。だが、事実はそうではない。これらの小説の主人公たちは、元来倫理的な相対的な場所にいたのだが、ある時点から漱石固有の問題をかかえこんでしまい、まったく異質の世界に移行してしまったのだ。彼らは倫理的に他者にむかうことを放棄したが、ひとは倫理的であるためにはまず自己の同一性・連続性をもちえていなければならない。(31~32頁)

 『行人』の最後の唐突かつ長い手紙も、『門』で宗助が突如として参禅する最後のエピソードも、なんでこうなるのだろうと疑問に思う読者は多いだろう。少なくとも私はそのように単純に疑問を持っていた。なぜ漱石はそれらのエピソードを最後に持ってきたのか。著者の仮説は納得的であるし、このように捉えれば漱石の他の作品における作品構造も推測できそうであり、著者は以下のように続ける。

 漱石の小説は倫理的な位相と存在論的な位相の二重構造をもっている。それはいいかえれば、他者(対象)としての私と対象化しえない「私」の二重構造である。他者としての私、すなわち反省的レベルでの私を完全に捨象してしまったとすれば、そして純粋に内側から「私」を了解しようとすればどうなるか。それを示しているのが『夢十夜』だ。この「夢」は漱石の存在感覚だけを純粋に暗示するのだが、われわれは漱石のどの作品にもこういう「夢」の部分を、すなわち漱石の存在感覚そのものの露出を見出すことができるのである。『坑夫』の出口のない地底の迷路もそうだし、『それから』の冒頭と最後にあらわれる「赤」の幻覚にしても然りである。(38頁)


 現実と夢、倫理と存在論。この二つの対比軸によって捉えると、それぞれの作品における漱石の物語の描き方を垣間見ることができるのではないか。こうした思考の補助線を持ちながら、漱石の作品を読み直すと面白そうである。


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