2017年11月5日日曜日

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)

 すれ違いがテーマとなる作品では、第三者として全体の構造が見える私たちにはもどかしく、しかしだからこそ、その作品に惹きつけられる。

 映画「君の名は。」では、瀧と三葉がひたすらすれ違い続け、最後の最後に初めて出会うからこその感動がある。また、アンジャッシュの「すれ違いコント」では、次第に大きくなる勘違いが笑いを増幅させてオチで最大化する。本作では、二つの大きなすれ違いを経て物語が進展し、やきもきした気持ちを幾度となく抱きながらも、読後には心地よい余韻が残る。

 フロムは、『愛するということ』の中で、愛の性質を与えるという能動性に見出し、配慮・責任・尊敬・知という四つの要素から成り立つとしている。蒔野と洋子は、その出会いの最初から、他の誰よりも相手を理解し、他の誰からよりも理解されていることを、対話を通じて直感的に感じ取っている。したがって、両者の間に愛という関係性があったことは間違いないだろう。

 しかし、すれ違いによって、両者の愛が異性愛の一つのゴールとも呼べる結婚へと繋がらなかったことを、軽々に運命のいたずらによる悲劇と片付けてよいものかどうか。私には、両者が夫婦として存在し得なかったことをもって悲しい物語と位置付けることはできない。悲劇であったのであれば、読後に残る余韻の心地よさの説明がつかないからである。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」(29頁)

 この蒔野の発言に洋子は共感し、その後も物語のポイントごとに思い出している。すれ違いによって相手の言動の背景を誤解してしまった過去や、それに伴って下した決断という過去であっても、その事実自体は変えられなくても解釈は変えられる。そうした可変的な過去解釈を自身が行うことで自分自身だけではなく他者との関係性も含めて将来に活かすことができるのではないか。

 それは愛およびその喪失の過程においても同様である。洋子は、戦時下での現地取材で負ったPTSDに苛まれ、その後に離婚まで経験しながらも、ジャーナリストとして新しいフィールドを見出している。蒔野も、洋子との出会いの前から悩まされたキャリア・プラトーの状況から、環境要因にも因るブランクを経て自身の演奏表現を再構築し、復活を果たしている。


 帯では「恋の仕方を忘れた大人に贈る恋愛小説」と謳われているが、異性愛だけに留めてはもったいないのではないか。やや大袈裟な物言いになることを承知の上で言えば、人間愛あるいは人間の多様な可能性についての示唆にも富んだ小説として読み解きたい。


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