2017年11月18日土曜日

【第777回】『夏目漱石と西田幾多郎』(小林敏明、岩波書店、2017年)

 亡くなった時期が異なるために、両者が同世代だとは気づいていなかった。直接的なコミュニケーションは推測の域は出ないが非常に限られた機会であったようだが、同じ頃の生まれであり、近しい問題意識を持っていたという。

 図らずも、漱石作品のあの執拗な心理描写と西田哲学のあの回りくどい論理表現は同じ苦吟を表現しているが、それは徒手空拳、自分の意思と思考だけを頼りに「近代」と格闘した彼らの「人生」の現場を赤裸々に映し出しているのだ。(11~12頁)

 小説と哲学という異なるフィールドでありながら、近代という新しい時代精神に対する意識が共通していたようだ。時代の大きな変わり目において、まさに生き死にをかけて取り組んだ両者の作品だからこそ、近代を経て大きく時を経た今日においても、私たちを魅了するのであろう。

 漱石山房や京都学派というような非血縁的な擬似家族共同体ができあがると、彼らはその中心にいて特別な「父性」を発揮した。彼らの手紙や人々の証言を参照すればわかるように、彼らは自分の「弟子」たちに専門知識を教示しただけではなく、目をかけ、可愛がり、叱り、励まし、面倒を見、相談に乗り、ということをじつに小まめにやっている。これはやはりひとつの能力というべきである。この「父性」がなかったら、あれだけ多くの「弟子」が彼らのもとに集まってくることはなかっただろう。(146頁)


 漱石の小説の中には、彼の弟子たちをモデルとしたものが多く出てくる。あの描写からもわかる漱石を取り巻くひとつの共同体と、京都学派と呼ばれた西田とその弟子たちによって形成された共同体。こうした共同体は自然発生的なものであるのだから、その中心にいる漱石と西田という存在に特色があることは容易に想像できる。その特徴を父性として見出した上記の箇所は興味深い。


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