2014年6月30日月曜日

【第301回】『模倣犯(二)』(宮部みゆき、新潮社、2005年)

 犯罪を犯した側の描写に焦点を当てた第二巻。いびつな関係性が組み合わされることで、猟奇的な殺人事件が出来上がる。

 栗橋浩美は嘘つきだったが、多くの嘘つきと違って、自分で自分を嘘つきだと自覚してはいなかった。それどころか、自分がついた嘘を、しばしば忘れた。(135頁)

 自覚をせずに嘘をつく。意図せずに、自然と悪を為すことは、自分自身をもコントロールできない。それは恐ろしい狂気の一つの形態であろう。

 栗橋浩美は、岸田明美というプリズムを通して、自分のなかに居るふたつの人格を見ているような気がした。明美が「貧乏くさい」と蔑む長寿庵は彼の生育環境の象徴であり、彼女に馬鹿にされることに烈しく反発する自分がいる。だがそれと同時に、彼女の蔑みに共感し、彼女の嫌悪を理解する自分もここにいるのだ。それはちょうど、明美が実家の裕福さを誇りつつ、東京ではただの田舎者にすぎない自分を密かに恥じ、その恥を克服するために栗橋浩美にーー正確には彼女が栗橋浩美に対して抱いている幻想にーーしがみつき、ふたつに分裂しているのとそっくり同じだった。(176頁)

 アイデンティティとは一人の人物の中に複数あるものである。関係する他者との間によって、それぞれ異なる人格が存在するものである。しかし、そうしたものが百八十度逆のものであると、自分とは何者なのかについて、悩むことになる。彼の場合には、そうした悩みの果てに、制御不能な殺人へと至ったのである。

 鏡は人を映すーー顔を映し、姿を映し、瞳の色を映し、その輝きを映す。それはただの物理的な作用で、映したからといって鏡がその人の何を知るわけでもない。鏡は無機質で無関心だ。だから人は、安心してその前で自分をさらけ出すことができる。自分を点検することができる。悦びや誇りの想い、世間への遠慮や謙譲の念に縛られて押し隠すことなく、おおらかに解き放つことができるのだ。もしもこの世に鏡が存在せず、互いに互いの顔を点検しあったり、自分で自分を観察したりするだけで生きていかなければならないとしたら、人は今よりももっと深く自分のことを点検しなければ気が済まず、安心できず、気を許すこともできなくなって、行きていくのがずっとずっと困難になるだろうーー(399~400頁)

 鏡という存在によって、私たちは自分の姿をそのまま目にすることができる。良くも悪くも変化しないことによって、私たちはその像に対して疑心暗鬼になる必要がない。だからこそ、自分自身のありのままの姿を受け容れられる。しかしそれと同時に、鏡は、受け容れたくない現実をも映し出す存在でもある。事実を無機質に映し出すものではあっても、その内容をどのように解釈するかは、私たちに委ねられているのである。

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