2014年6月15日日曜日

【第296回】『ノルウェイの森(下)』(村上春樹、講談社、2004年)

 「私たちがまともな点は」とレイコさんは言った。「自分たちがまともじゃないってわかっていることよね」(7頁)

 精神病患者たちが暮らす施設に住む登場人物の言葉。アイロニーに満ちた表現は、私たちに「まとも」とは何かを考えさせ、他者を批判して自分自身を安全な場所へと逃れようと時にしてしまう心性に気づかせる。思わずはっとさせられる言葉だ。

 「でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待ってるわけじゃないぜ。俺は俺なりにずいぶん努力をしている。お前の十倍くらい努力してる」
 「そうでしょうね」と僕は認めた。
 「だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね」(113~114頁)

 こうした自己啓発本に出てきそうなマッチョな考え方に共感する自分を悲しくも思う。しかし、シンプルに、以下の二つの点で共感してしまうのである。第一に、自分自身が行なった努力を、他者もまた同じタイミングで行なっていれば、同じようになったはずである。次に、努力もまた天賦の才能であるように言う方々もいるが、行動心理学の知見によれば、小さな行動をすることが刺激になり次第に大きな行動に続くだけである。一歩の小さな行動をするか否かが、努力を継続できるか否かに影響することを考えれば、上記のような発言に共感してしまうのもいたしかたないのではないだろうか。

 まるで手紙を書くことで、バラバラに崩れてしまいそうな生活をようやくつなぎとめているみたいだった。(224頁)

 書くことによって、自分自身の多様なアイデンティティーを統合することができる。自分自身の多様性は本来的にすばらしい可能性の宝庫であるが、時にそのうちの複数が同時期に傷つけられたとき、私たちはアイデンティティーの危機に陥る。分裂・拡散しようとしている複数のアイデンティティーをもう一度一人の自分に束ねるためには、特定の他者に対するメッセージを書くことが効果的なのだろう。それは他者のためであるとともに、その他者との関係性から自分自身をも冷静に眺めることになる。

 「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」(253頁)

 咀嚼しきれてはいない。ただ、フロイトのタナトスを思い起こさせられ、なんとなく響く言葉である。

 あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい。(281頁)

 親しい間柄の人物の死に悲しみをおぼえることは通常の感性であろう。しかし人は、そうした境遇によって他者から同情されることに快感をおぼえ、立ち直らないことを正当化してしまう弱い存在でもある。そうした正当化は、幼い子どもが自分の意に添わない状況を打開するために公の場で泣き叫ぶことで、家族以外からの同情を買って自分自身の願望を満たそうとすることと相違ないのかもしれない。


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