2014年6月2日月曜日

【第292回】『探究Ⅱ』(柄谷行人、講談社、1989年)

 『探究Ⅰ』(『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年))から、著者の探究は続く。

 私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、いつもそこに「この私」が抜けていると感じてきた。哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。それを主観といっても実存といっても人間存在といっても同じことだ。それらは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜けおちている。私が哲学になじめなかった、またはいつも違和を感じてきた理由はそこにあった。(中略)
 私はここで、「この私」や「この犬」の「この」性this-nessを単独性singularityと呼び、それを特殊性particularityから区別することにする。単独性は、あとでいうように、たんに一つしかないということではない。単独性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体性である。(9~10頁)

 冒頭の書き出しには共感すると同時に、著者ほどの大家であっても哲学というものに対してなじめない感覚を若い頃に持っていたということは新鮮だ。抽象化は哲学における一つの大きな特徴である一方で、「この私」との結節点が分からなくなるということも起こる。著者は、一般性や特殊性に対して単独性という概念をもとに、探究を試みることを冒頭で宣言する。

 単独性の問題は、個体が「何であるか」ということとは無関係なのだ。たとえば、われわれは、ある脳を単独性として把握すれば、それを「夏目漱石の脳」と呼ぶし、あるテクストを構造やインターテクスチュアルな織物としてではなく、単独性においてみるとき「漱石のテクスト」と呼ぶだろう。そのかぎりで、われわれは「歴史性」に出会う。それは、漱石という「個人」や、漱石という「作者」とは関係がないし、その歴史性とも関係がない。科学としての批評は、このような固有名を消そうと試みる。しかし、それは、固有名を記述によって翻訳してしまうのと同じことである。むろん、そうしてはならないということではない。むしろ、そうすることによってのみ、われわれは逆説的に単独性の問題に出会うのだから。(31~32頁)

 単独性には固有名が深く関係することになる。一見して一般的な事物に見えるものであっても、そこに固有名が加わることで単独性として把握できるものである。固有名を消すことは抽象化であり、科学的に一般性を証明しようとする抽象化の作業は、良いか悪いかは扨措き、そうした単独性を消すことに繋がる。

 固有名は、それを消し去ることができないような位相に存する。固有名は、言語の一部であり、言語の内部にある。しかし、それは言語にとって外部的である。あとでのべるように、固有名は外国語のみならず自国語においても翻訳されない。つまり、それは一つの差異体系(ラング)のなかに吸収されないのである。その意味で、固有名は言語のなかでの外部性としてある。(39頁)

 言語における固有名のその特徴は、ある言語体系の中に限定されない点にあると著者は指摘する。日本人としての私の氏名は、日本語のものを英語に翻訳するという作用は生じない。したがって、ある共同体における言説空間において生まれた氏名であっても、それはそこに閉ざされず、究極的に外部性を持った存在である。

 こうした固有名に関する議論の後に、精神へと題目を移し、著者はデカルトを用いながら議論を進める。

 われわれは、デカルトと、彼とともにはじまるといわれる近代哲学の構え(精神と身体、主観と客観)に対する各種の批判を幾度もきいている。しかし、そのほとんどはデカルトと無縁である。たとえば、精神と身体の二元論などは、デカルト以前からあるだけでなく、日常の思考(言語表現)にある。それをデカルトのせいにするのは的外れである。というのは、デカルトにとって、その種の二元論を拒否することにこそ「精神」があるからだ。デカルトのいう精神は、意識やいわゆる主観とは無関係である。だからまた、主客の分離をこえようとする各種の神秘主義が、デカルトの名を引き合いに出すのはおかしい。デカルトの“二元論”を批判するためには、彼のいう「コギト」が何であるかを見きわめなければならないはずである。(77頁)

 西欧近代はデカルトとともにはじまったとも言われる。そうした文脈においては、たぶんに否定的な意味合いをも包含されることが多い。デカルトが二元論的思考の創始者であるように言われるからである。しかし著者は、そうしたものはデカルトの思想を矮小化し曲解したものにすぎず、デカルトの思想の持つ可能性は大きいとする。

 デカルトのコギトはフッサールのいうようなモナド(個)なのではない。「他我」の問題が、デカルトにはじまるという説は誤解にすぎない。デカルトは、他者の他者性を「神」として見出している。また、彼の場合は、コギトは私的(単独的)なのであって、一般的ではない。したがって、コギトから他者を構成することなどできない。デカルトのコギトは、フッサールの独我論的なコギトとちがって、他者との非対称的関係のなかにおかれている。(107~108頁)

 デカルトの「コギト・エルゴ・スム」におけるコギトは単独性による「この私」である、と著者は指摘する。二元論によって生み出された独我論的な私はデカルトによる産物ではない。デカルトのコギトは、彼を継承したデカルト主義者による独我論的なコギトとは異なり、他者との関係性の中に開かれた存在なのである。

 この主体を“主題”として語ったとたんに、それは再び主体となるからだ。デカルトは、この危うさのなかにあった。一方で、彼は、外界や身体だけでなく、心理的な自己そのものを疑いカッコに入れることにおいて、コギトを見出している。しかし、他方で、このコギトを心理的な自己と同一化してしまっている。こうして、思考が共同体(慣習・文法・システム)や身体のなかにあるのではないかと疑う主体は、その外部性をうしない、それらを超越するような主体になってしまう。デカルト主義はここに成立したのである。
 しかし、このことはデカルトに限ったことではない。デカルト的な主体を否定するマルクスやニーチェなどを読む者は、あたかもすべての言説を超越するメタレベルに立っているかのように考えてしまう。そこに、再び「主体」が出現するのだ。つまり、マルクスやニーチェにあった外部性はうしなわれ、超越論的自己が超越的な立場になってしまう。
 スピノザは、デカルトのこの危うさに気づいた。したがって、彼がデカルト主義を批判したとしても、それはむしろデカルトを徹底化しようとしたのだといってもよい。(174~175頁)

 しかし、デカルトのコギトが持つ可能性として有する主体性が、その外部性を失う契機になったという点もある。さらに、外部性を失ったコギトがデカルトを継承した人々によって見出され、二元論が西欧近代における主流な考え方となってしまった。そうした二元論から逃れようとしたマルクスやニーチェすらも、二元論を超越しようとする過程で彼らの思想から外部性が失われてしまう。こうしたコギトやコギトを乗り越えようとする人々による外部性の喪失の危険性に気づいていたスピノザは、デカルトが本来的に志向していた主義を徹底化したのである。

 こうした外部性と繋がる他者性について、分裂病者への治療という形態で徹底したのがフロイトである。

 フロイトの区別が重要なのは、ここにおいてである。何度もいうように、彼の全理論体系が、「転移関係」の場での対話にもとづいていることに注意すべきである。それをとりさったフロイトの理論体系なるものは意味をなさない。また、フロイトが感情転移してこない者をナルシシズム神経症と規定したとしても、それは、たとえば分裂病者は一切感情転移してこないということを意味するのではない。精神分析的方法をとらない医者も、治療の過程で、患者との間に一種の転移関係をもつはずである。ベルグソン的直観によろうと、現象学的方法によろうと、精神医学は、治療の実践的な過程において、そのような転移関係をもつ。にもかかわらず、どうしても感情転移してこない領域が残る。分裂病者の「他者性」は、全面的なものではなくて、いわば局所的な領域に存する。が、まさにその領域こそが「境界」を形成するのである。(266~267頁)

 話が通じない相手とは、同一の言語ゲームを共有しない他者である。そうした究極的な他者性を保有する他者を、精神分裂病者にフロイトは見出した。しかし同時に、精神分裂病者も常に話が通じないわけではなく、通じる部分と通じない部分とがあり、そこには境界がある。こうした境界が生じるのは、なにも精神分裂病者に限るわけではないことを、著者は続けて述べている。

 むろんこのことは、われわれの日常のコミュニケーションにおいても生じる。言語ゲームは多種多様であり、その「境界」もまた多種多様である。したがって、ある領域で通じ合っていても、別の領域では通じ合えない。分裂病者が四六時中支離滅裂であるかの如き古典的妄想は問題外だとしても、彼らとの関係において、どうしても言語ゲームを共有しえない領域とその「境界」があることは明らかである。大切なのは、この境界の不可避性を認めることである。境界はないと宣言したところで、何も片づきはしない。(267頁)

 人格の統合体としての人間じたいが多種多様であるとともに、一人の人物の中には多種多様な人格が存在する。したがって、ある話は通じても、ある話は通じないということは日常的に生じる普通の現象である。ために、超越論的な立場から境界がないことを述べるのではなく、境界が現に存在せざるを得ないことを認めることが大事なのである。

 共同体をその内部だけから考察してはならない。つまり、共同体を孤立したものとして扱ってはならない。そうするかぎり、共同体の思考に陥ってしまうだろう。共同体がその努力を傾注するのは、内部の同一性を保持すること、つまり自律的であるかのようにすることだからである。実際にはそのような自律性などありえないが、まさにそうだからこそ、共同体は内部的自律性をおびやかすものを、“外部”に追放し、且つ“外部”に由来するものとみなす。
 しかし、このような“外部”は共同体の“内部”に対して相対的に在るにすぎない。それは実は、共同体の一部なのである。この不気味な外部(フロイト)は、親密な内部の自己疎外にすぎないからだ。このような外部(異界)や、そこに属する異者は、すでに共同体から見られたものであり、したがって共同体にとって不可欠な一環である。コスモスとカオス、中心と周縁の弁証法なるものは、かくして、共同体の存続のメカニズムそのものである。(294頁)

 ある共同体における言語ゲームは、その内部からは客観的に見ることはできない。他の共同と対置することによって、ある共同体の内的同一性を把握することは可能であり、共同体はそうした内的同一性をなかば自然に保とうとする力が働いている。内的同一性を保つために、共同体の内側における他者を共同体は創り出し、外部に追い出そうとする。しかし、その外部とは、特定の部落であったり牢獄の中であり、それは共同体の内部における装置にすぎない。そうした共同体の内部におけるダイナミクスこそが、その共同体の内的同一性を保持する作用にすぎないと著者は指摘しているのである。

 こうした一連の探究を経て、著者はあとがきで以下のように述べる。

 私が『探究』の連載で問いつづけてきたのは、「間」あるいは「外部」において生きることの条件と根拠だといってよい。それはいわば超越論的であると同時に、「超越論的動機」そのものを問うことである。むろん、これはたんに理論の問題ではなく生きることの問題だ。「探究」とは反復である。(310頁)


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