「ハルキスト」ではない私が、著者の昔の著作を読もうと思ったのは単なる巡り合わせにすぎない。私と同じ時代を共有していない漱石や三島ばかりを好んで読むのもどうかと思い、現代を生きる著者の書籍を読もうと思い至ったのである。まず、日本語が非常にきれいだというのは改めて感じた点である。彼の本は何作か読んできたが、最近の著作と比べてシンプルで読み易いようだ。
記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何をみても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ。(10頁)
読み始めてすぐにこの箇所に辿り着き、なぜか心に残り、美しい文章だと思った。本書を読み始めてよかったと感じた。思考が堂々巡りになる感覚は、今でも私にはある。特定の物事を考えるともなくただただ歩いていると、自分のことを考えているのか、なんらかの現象のことを考えているのか、直近で自分がなにを考えているのか、わからなくなることがある。それでいて、思考が進んだり、複雑な事象が単純に整理されたりするのだから、面白い。
結局のところーーと僕は思うーー文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。(22頁)
不立文字、という言葉が浮かんでくる。私たちは、自分たちが思っていることを表現しようとして言葉を紡ぎ出す。言葉にすればするほど、自分が思っていることから離れていくことがある。言葉にすれば、真実がそこから漏れていく。しかし、それでもなお、言葉にすること、かたちにすること、そうした営為の中から、私たちの思考は進み、記憶が事実と綯い交ぜになって形成される。
「死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの」(229頁)
なんとなく、勇気づけられる言葉である。命を落とした方とその方との関係性に関する記憶を大事にしながらも、今を生きる自分を見失わないこと。
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