つい先日に劇的な解決を見た、通信ネットワークを利用した遠隔操作を利用したなりすましによる犯罪事件。社会的に耳目を集めたこの事件を眺めていて、ふと本書を読み直したくなった。情報通信技術を駆使して犯罪を試みた某とは異なり、他者の心理を読み意図する行動へと導き完全犯罪を為そうとした本書の真犯人。いずれにしろ、意図は私たちには計り知れないものではあるが、犯罪とは社会が生み出すものでもある。
すべてを事細かに頭に焼き付けておくという習慣を、ここ一年ほどのあいだに、彼は深く身に付けてしまっていた。日々の一瞬一瞬を、写真に撮るようにして詳細に記憶しておく。会話の端々までも、風景の一切れさえも逃さず、頭と心のなかに保存しておく。なぜなら、それらはいつ、どこで、誰によって破壊され取り上げられてしまうかわからないほど脆いものだから、しっかりと捕まえておかなければいけないのだ。(7頁)
痛ましい事件に直面してしまった後に、「当たり前」にある未来が確約されていないという新しい「当たり前」へと変わる。悲劇の後に訪れる絶望と、その中で生きる人の苦しみの描写。長編ミステリーは、著者のすばらしい心象描写から始まる。
治療が必要だ。外部からの救助の手が必要だ。真一はそういう状態だ。ひとりでは乗り越えることができないーー
それでも、乗り越えないといけないのではないか。その責任があるのではないか。たったひとりだけ、生き残ってしまった以上は。(215頁)
愛する家族を失った犯罪被害者が、絶望の中で感じる決意。同じような状況に陥った時にこうした強さを持つことができるだろうか。深く、考えさせられる言葉である。
きれいで贅沢で、なんの憂いもない景色だ。義男は呆然とするような非現実感を覚えて、自分はいったい何をやっているのだろうと思って、急に疲れた。こういう高級ホテルなんて、普段は足を踏み入れることもない。有馬豆腐店が契約をしている得意客のなかに、小さい日本旅館はあるけれどホテルはない。(251頁)
緊張感を強いられる局面において、現実と日常とのギャップが大きすぎると、このように疲労感をおぼえてしまうのだろう。対比を巧みに描写することでそのギャップを精神的・身体的な疲労がよく伝わってくる。
この世に満ち溢れているのは、みんな犠牲者ばっかりだ。真一は考えた。それならば、本当に闘うべき「敵」は、いったいどこにいるのだろう?(459頁)
あらゆる人は他の誰かによる犠牲者であり、換言すれば加害者でもある。被害と加害が絡まり合う現実世界において、私たちが立ち向かうべき「敵」はいったい誰なのか。著者の問いは、重たい。
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