生物という具体的な主体を通じて世界を眺めると何が見えてくるのであろうか。生物学者であったと同時に登山家でもあった著者の世界観は、生物学のみならず社会学・哲学的な思潮をも彷彿とさせる。
この世界を構成しているいろいろなものが、お互いになんらかの関係で結ばれているのでなければならないという根拠が、単にこの世界が構造を有し機能を有するというばかりではなくて、かかる構造も機能も要するにもとは一つのものから分化し、生成したものである。その意味で無生物といい生物というも、あるいは動物といい植物というも、そのもとを糺せばみな同じ一つのものに由来するというところに、それらのものの間の根本関係を認めようというのである。(9頁)
異なる種の間の関係性を見出す上で、こうしたもともとの種は同じであるという考え方は重要であろう。なんらかの共通項があると信じて関係性を眺めれば、そこに共感を得られる縁を見出すことは比較的容易であるからである。
生物はその統合性によって自己および自己をとりまく環境ないしは世界を統制し支配している。環境といい世界というものも要するに自己の延長であるとすれば、生物の統合性とはすなわち自己の統制であり支配である。(72頁)
世界の中における自己、自己を取り巻く世界。どちらで表現したところで、自己と世界とは間主観的に相互に影響を与え合う関係である。ともすると私たちは、世界や環境を意識し過ぎることで、自分自身が何もできない存在であるように卑下してしまう。他方、自分自身の意識が強すぎるときには、夜郎自大の精神で生意気な言動をとってしまう。自然に振る舞うことを重視する老子の思想(『老子』(金谷治、講談社、1997年))はこうしたところにも表れる。
変異ということそれ自身もまた主体の環境化であり、環境の主体化でなければならぬ。生きるということの一表現でなければならぬ。否、よりよく生きるということの表現でなければならぬ。現状維持が死を意味するとき、生物はつねになんらかの意味でよりよく生きようとしているものであるということができる。生物の生活がこのように方向づけられているからこそ、環境化された主体はいよいよその環境を主体化せんとして、いよいよ環境化されて行く。適応の原理はここにあるであろう。(165~166頁)
適応とはなにかを考えさせられる。それは自己の環境化であるとともに、環境が自己になるということでもある。変化というと、自己を環境に合わせるということに意識が傾注しがちであるが、変化じたいを自分の一部にするという考え方も大事である。
自己完結性こそは主体性の根原でもあり、全体性の根原でもあり、それはまた歴史の根底にあって歴史を超越し、創造の根底にあって創造を超越したなにものかである。一々の生物も、生物のつくる社会も、この自己完結性を通してつねにこの世界の理念ーーこの世界の自己完結性ーーといったものに触れていなければならない。(186頁)
他者や環境ばかりをみるのではなく、自分自身を完結させること。むろん、自分自身の中には多種多様なアイデンティティーが存在するのであり、それらを統合させることであり、その統合体としての自分自身を更新し続けること。
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