2014年6月1日日曜日

【第291回】『探究Ⅰ』(柄谷行人、講談社、1992年)

 高校三年の時、予備校での現代文と小論文の授業が私にとって一服の清涼剤のような存在であった。いま考えると、現代文で取り上げられている文章を読み解くのがたのしくて、受験勉強に前向きに取り組めたのだと思う。とりわけ、著者の文章は好きであった。 自分が行きたい大学・学部を選んだのにはいくつか理由があるが、そのうちの大きな一つの要因は、早稲田大学の過去問で出ていた著者の文章を読んだことが原因である。どのような内容であったかは忘れてしまったが、早稲田の過去問を読んで慶應を目指すことを決めたのであるから、不思議な縁である。

 私は、自己対話、あるいは自分と同じ規則を共有する者との対話を、対話とはよばないことにする。対話は、言語ゲームを共有しない者との間ににもある。そして、他者とは、自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。そのような他者との関係は非対称的である。「教える」立場に立つということは、いいかえれば、他者を、あるいは他者の他者性を前提することである。(11頁)

 対話という概念を私たちは日常的に安易に使いすぎているのかもしれない。対話であることの前提条件として著者は、他者における他者性を置いている。他者性とは、自分と他者とが共通の言語ゲームを共有していないことである。つまり、あうんの呼吸と言われるような、言語ゲームを共有している間柄からは対話は生じない。そうした関係性における話は自己対話と変らない。

 彼(引用者註:デカルト)にとって、「疑う」ことは、自らが「思う」ことが共同体(言語ゲーム)に属しているのではないかと疑うことにほかならない。いいかえれば、疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを精神とよんでいる。(13頁)

 同じ言語ゲーム内における自己対話状態から脱却するためには、疑うための意志が必要不可欠であるとデカルトは考えた、と著者はしている。したがって、デカルトにおける疑うという行為は、自分自身の内側に入って行くというアプローチではない。そうではなく、自分自身、ひいては自身の属する共同体としての言語ゲームから外に出ようとするアプローチであることに留意する必要があるだろう。

 私が疑うのは、私が不完全であり有限であるからであって、そのことは完全にして無限なる他者(神)があるということの証拠(証明)である(15頁)

 デカルトによる神の存在証明とは誤解されることが多い。しかしその真意は、言語ゲームから私たちが出るために、その究極的な外部にある存在として仮定的に神という存在を置いてみたことにすぎない。そうした外部的な視点から自分たちの言語ゲームを眺めるという視座を持つことで、私たちは外に出ることができるとデカルトは考えたのである。

 「教える」立場ということによってわれわれが示唆する態度変更は、簡単にいえば、共通の言語ゲーム(共同体)のなかから出発するのではなく、それを前提しえないような、場所に立つことである。そこでは、われわれは他者に出会う。他者は、私と同室ではなく、したがってまた私と敵対するもう一つの自己意識などではない。むろんこの場所は、われわれの方法的懐疑によってのみ見出されるものである。(17~18頁)

 神という装置によって言語ゲームの外側に立つことで、他者性を有した他者との対話が可能になる。そうした対話においては、私たちは、共通言語を持たない中における「教える」という行為が可能となる。

 デカルトの「神」にかわって、共同主観性や社会的制度、あるいは共通感覚や集合無意識といったものがもちだされる。これらは、「私」を一般者につなぐためのさまざまな意匠にすぎない。これらが、「神」の代替物であり、またデカルトの論証と同じ循環論的困難をはらんでいることはいうまでもない。(244頁)

 デカルトが外部の究極的な装置として創出しようとした「神」の部分に、他の究極的な装置を置いてみるという発想は、現代でも行なわれる。そうしたものは、デカルトにおける「神」と同じ論理構造を持つことになる。

 同一の言語ゲームに立つかぎり、どんな対立や葛藤があろうと、モノローグ(独我論)的である。逆にいえば、ダイアローグ、あるいはポリフォニックなものとは、声や視点を多数化することによって得られるのではなく、もはやいわゆる対話が不可能な地点において「他者に語る」ことから生じるのである。逆に、そのような他者の前でのみ、自己の単独性が存する。(205頁)

 「教える」行為とは異なり、同じ言語ゲームの内部どうしにおける他者との対話は、換言すれば他者性の欠落した他者との対話は自己対話にすぎない。したがって、それはダイアローグではなくモノローグなのである。

 独我論の難点は、そこに対関係における他者がいないということにある。それは、私を、一般者としての他者とのみ関係づけてしまう。独我論が批判さるべきなのは、その閉鎖性(牢獄のイメージ)においてではなく、それが「私」を「一般者」に関係づけてしまう“開かれ方”においてである。(246頁)

 他者性の欠落した他者とのコミュニケーションにおいては、私を特定の他者ではなく一般者とのみ関係づけてしまう。そうした関係性においては、他者を意識した関係性ではなく、独我的な、つまりは自分自身に閉ざした自己イメージに繋がらざるを得ない。

 むろん、ブッダにせよ、孔子にせよ、彼らのいうことは、まもなく「共同体」に回収されてしまった。そして、それは彼ら以前からある「神秘主義」に吸収されたのである。神秘主義は、私と他者、私と神の合一性である。それは《他者》を排除している。いいかえれば、“他者性”としての他者との関係、“他者性”としての神との関係を排除している。そこにどんな根源的な知があろうと、私と一般者しかないような世界、あるいは独我論的世界は、他者との対関係を排除して真理(実在)を強制する共同体の権力に転化する。西田幾多郎やハイデッガーがファシズムに加担することになったのは、偶然(事故)ではない。(250頁)

 非常に辛辣な指摘であり、その是非をここで問いたいわけではない。しかし、他者性が欠落した独我論的な関係性をもとにした宗教や思想は、共同体における権力主体が力を行使する上での理論的背景となる宿命にある、という著者の指摘は、歴史の負の側面を考えれば首肯せざるを得ない部分でもあろう。

 ウィトゲンシュタインは、「言語ゲーム」によって、われわれのコミュニケーションが何らかの規則(コード)によっていることをいいたいのではなく、その逆に、そのような規則とは、われわれが理解したとたんに見出される“結果”でしかないといいたいのである。そのような規則は、ある記号で何かを「意味している」ことが成立するそのかぎりで、たちまち「でっち上げられる」。そして、このような規則の変改を規制するような規則はありえないと、ウィトゲンシュタインはいう(「哲学探究」八四)。(44~45頁)

 言語ゲームにおいて、私たちは規則に則って行動しているように思いがちであるが、自由な行動の結果として規則が生じるという発想の転換がここで為されている。規則があるから行動が生じるのではなく、行動のたまたまの結果として規則が生じるという点は、言語「ゲーム」という言葉にヒントがある。つまり、幼い頃に私たちが行なったゲームを想起すれば分かるように、多数の友人たちと自由に遊んでいるうちに、次第に規則が作られ、より興じることができる。そうした規則も刹那的なものであり、遊ぶ相手が変ったり、時間が経てば、規則は変化する。規則が私たちの行動を縛るというよりも、行動が規則を創り出すというウィトゲンシュタインの発想は、実は私たちにとってなじみのある発想であると言えよう。

 規則はたしかに社会的である。しかし、それは、社会的規則、あるいは社会(共同体)がどこかにあって、われわれがそれに従うということを意味するのではない。(中略)ある人が共同体に受けいれられてないならば、その人は「規則にしたがっていない」とみなされる(74頁)

 共同体とは、同じ言語ゲーム、つまり規則を有している存在である。しかし、それは規範的にある共同体において規則が用意されるということではなく、社会的に規則が生じることで共同体もまた生まれる、という関係性である。ベネディクト=アンダーソンに倣えば、共同体は創造されるものであり、規則もまたそれと同時に創造されるものなのであろう。

 マルクスが価値形態論において強調したのは、貨幣の秘密が商品の等価形態にあるということであった。等価形態にある商品は、相対的価値形態にある商品に対して、“直接的交換可能性”をもつが、その逆は成りたたない。重要なのは、この非対称性である。これは、“売り”と“買い”の差異を論理的に突きつめたものだといってよい。つまり、価値形態論は、貨幣の起源や貨幣の論理的必然性を論じたものではけっしてなく、経済学の構えのなかで無視されている“売り”と“買い”の決定的差異を根源的に確認しようとするものなのである。(128~129頁)

 共同体どうしの境における交易を担うものが貨幣である。貨幣という装置を用いることで、異なる価値のものが同じ貨幣価値があると見做されて等価交換される。商品に価値が存在するのではなく、商品に貨幣に基づく価格を付けることで、価値が生じることで売れる状態になる。

 信用という幻想の体系は、“売り”の危うさを回避する、いいかえれば貨幣などどうでもよいかのようにみなしうる装置にほかならない。信用は、あらゆる権力と同様に、ひとびとが今ここで一挙に“決済”を要求したならば崩壊する。逆にいえば、信用は、“決済”を未来に先送りする装置である。たえまない差異化としての資本主義の“時間性”は、信用制度からみれば、未来に向けて前進することではなく、未来をたえず先のばしすることなのである。(148頁)

 信用取引を想定すれば分かりやすい考え方であろう。貨幣をもとにした資本主義においては、今の延長上としての未来が当たり前のように存在することを前提にしたものであり、したがって信用という概念が生じるのである。信用を創出することで、“売り”と“買い”の差異をないものと見做そうとすると考えられる。

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