2014年5月31日土曜日

【第290回】『戦争学原論』(石津朋之、筑摩書房、2013年)

 日本人は、戦争という言葉を前にして思考停止になりがちなのではないか。たしかに、太平洋戦争によって失ったものの重さを考えれば、戦争を忌避する私たちの意識は致し方ないのであろう。しかし、戦争に対して思考を止めて、無反省な状態にまでなってしまうのは問題である。

 本書は、戦争を防ぐことを目的として戦争について論じる書籍である。客観的に戦争という現象を理解することで、私たちは、戦争が起こる事態を防ぐ術を学ぶことができる。こうした著者の問題提起には大いに賛成であるし、その意欲の一つの結晶体である本書は、私たちが読むべき一冊であろう。

 戦争と祭りは、共に聖なるものとされるが、聖なるものとは常に動かし難く、圧倒的であり、そして理解不可能なのである。 以上、カイヨワの戦争観を踏まえながら戦争とは何かについて検討してきたが、彼の挑発的で刺激的な論述により、戦争に対する人々の固定観念や先入観が打ち砕かれるであろうことは疑いない。戦争、それは承認された暴力であり、命じられた暴力であり、尊敬される暴力なのである。(66~67頁)

 日本人が太平洋戦争時において、精神論で戦争に臨んだことは、私たちが自国の歴史として学んできたことである。しかし、それが1940年代の日本に独自のものであったとまで思うことは思い過ごしである。著者がカイヨワを引用しながら述べているように、いわゆる「総力戦」と呼ばれる戦争形態には、戦場においても銃後においても、死を迎え入れる構造が求められた。第二次大戦における戦争は、どの国家にとっても、国民国家によって承認され、命じられ、尊敬されるものなのである。したがって、日本だけが独特だったのではなく、総力戦とは精神論が求められるしくみを内包しているのだ。

 こうした時代精神を創り出す上では、その前提条件として国家の潤沢かつ長期間維持可能な生産能力が求められることは自明と言えるだろう。

 膨大な犠牲に耐える用意ができていることは、依然として大国として生き残るための適合性の指標であり、だからこそ、ヨーロッパでもっとも発展し、産業化され、そして教育水準の高いとされた諸国が、四年以上にわたる苦難に満ちた戦いを続けることができたのである。端的にいえば、第一次世界大戦において軍隊の決意と闘志は死傷者の数で判断された。(218頁)

 生産能力とはすなわち、産業のレベルとともに、産業の担い手としての国民の教育水準の高さとの組み合わせである。したがって、産業革命を経ていることと、国民の識字率が高いこととが生産能力を示す指標となる。生産能力が戦争の継続を規定することを頭に入れること。そうすれば、生産能力で遥かに優位にある太平洋戦争開戦時のアメリカのような国家に対して戦争を起こすことの無益さを理解できるだろう。

 総力戦を可能とする要素についてここまで見てきた。最後に、総力戦がそれを経験した国家にもたらした効用についてもまた見てみよう。

 山之内は、いわゆる上流階級とその他の国民の区別という階層性を成立以来孕んできた近代社会のあり方が、総力戦体制によって人的資源が全面的に動員され、劣位の国民も戦争遂行体制に組み入れられる中で大きく変容し、「階級社会からシステム社会への移行」が起こった、と論じたのである。そして、このようにして成立した社会を彼は「近代社会」に対する「現代社会」と呼んだ。(238頁)

 総力戦を肯定するつもりは毛頭もない。しかし、総力戦を経た国民国家が、従前にあった生来の階級社会的な要素が薄まり、機能的かつ合理的なシステムを是とする要素が高まったという側面があることもまた事実だ。こうした効用があるからこそ、戦争を求める国家は厳然として存在し、また先進諸国の中においても相対的に不平等感をおぼえ易い貧困層がナショナリズムに共鳴をおぼえることとなる。自覚的であれ、無自覚であれ、こうした傾向があることを踏まえて施策を考えることは必要不可欠である。


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