2014年5月4日日曜日

【第280回】『哀愁の町に霧が降るのだ(下)』(椎名誠、新潮社、1991年)

 上巻に続き、下巻もまた、興味深い表現に満ちており、一気に読み終えた。引用をしながら所感を書いていると、著者は意図的に漢字で書くことを少なくしているのではないかと感じる。漢字ではなく、ひらがなやカタカナを多く用いることで、表現が伝わり易くなうということもあるのかもしれない。

 外から帰ってくると片手にさりげなくモーパッサンとかリルケなどの本を持ち、いつになくすこし愁いを含んだ、人生につらそうな顔をちらりと見せたりしていた。(160頁)

 嫌みな情景を、読者が嫌みに感じないように書くとこのようになるのであろうか。

 いつになく沢野がシリアスなので、ぼくたちはそのあといつになく言葉少なにおじやを食べ、薄いお茶を飲んだ。そして昼近く、沢野はバタバタと身の回りのものを片づけ、「それじゃ学校へ行ってくらあ、今夜は友達のところに泊まるから帰らないよ」と言って大あわてで出ていった。(197頁)

 本作にしては、珍しく文学的な表現である。静と動とをアナロジーを用いながら表現し、巧みに両者を対比的に用いることでストーリーの展開を表現している。

 とにかくひたすらうるさい親父だったけれど、寄りかかっているその壁のむこうにはいまはもう誰もいない、ということになるとなんだか奇妙に空虚なかんじがした。(315頁)

 ここもまた、文学的な表現である。文学的な表現を著者が用いる箇所は、感傷的な気持ちを表現している場面のようだ。「奇妙に空虚なかんじ」というのが、なんだかいい心持ちのする表現である。

 空がいつの間にかものすごいスピードで明るくなってきていた。風のない道路の奥はモヤがかかっているようなかんじだったが、それでもまぎれもなく、たくましくて騒々しい都会の朝がぼくらのまわりでぐんぐんと「はじまり」を告げているのだった。(348頁)

 夜が明けて新しい朝が、新しい一日が訪れる。こうした日の変化をわざわざ括弧をつけて「はじまり」と表現することで、四人+αの共同生活の終りと、新しい生活への旅立ちへの変化を表しているのであろうか。


0 件のコメント:

コメントを投稿