2014年5月24日土曜日

【第288回】『17歳のための世界と日本の見方』(松岡正剛、春秋社、2006年)

 読みたい本がなくて困った時に私が手を伸ばす書き手が何人かいるが、著者はその一人だ。「おわりに」で著者自身が触れているように、ティーンエイジャーが読んで面白いということだけではなく、おとなの私が読んでも示唆に富んだ良著であった。

 本書は、学生を対象とした授業をもとに書かれたものであり、そのためにタイトルにあるような年齢層を主たるターゲットとしているようだ。大学の講義が基となっているため、各章が「第何講」という名称になっているところもまた、面白い。以下では、とりわけ興味深かった第二講「物語のしくみ・宗教のしくみ」に焦点を当てて論じてみることとする。

 脳というのは「自己」とか「自分」というものを少しずつ設定することで、その自己を仮の主語として情報をどのようにも組み立てていくようになっているんですね。編集しているんですね。そうすると、その仮の主語で情報を語れるようになるんです。
 それが「自己組織化」とか「自己編集化」です。つまり、いろいろ「他者」や「他人」の情報をとりこむことができるようになっていくんです。(65頁)

 ここでは、人間の脳の構造が、いかにして情報を物語として加工し保存する機能を持っているかについて触れられている。自分自身の情報をそのように加工・編集するのに加えて、他者の情報をも利用可能な状態にする上で物語として入力するのである。

 こうした個人単位での物語化が、社会単位で行われたことにより、物語が誕生する。

 紀元前八〇〇年くらいに、「語り部」とよばれる人々が出現してきます。「語り部」というのは、「物語を語る人」という意味です。もっといえば「物語の専門集団」です。 
 そのころ、物語を語る人たちは、特別な人たちと考えられていた。というのも、物語というのは、一族や民族の歴史の記憶を保存するための特別な技術と考えられていたからです。そこには一族や民族のなかに「集団的な自分」とか「集団的な自己」が生まれなければなりません。そうでないと物語にならないんですね。三歳のころのわれわれと同じように、物語を編集する語り部たちは、共同体の記憶のようなものを自己組織化したり、自己編集化したのです。(66頁)

 語り部が物語ることによって物語は生まれた。こうして、個人単位での記憶は、社会における個人という社会単位の記憶が創られることとなったのである。社会を支配する主体、つまり権限を握る権威者による意向が働いたり、民間伝承が言語化されて社会としての知恵が蓄積される上で物語は活用されたのである。

 こうした物語の持つ効用が発揮された一つの大きな例が宗教である。宗教を大別すれば、西洋における一神教と東洋における多神教とがある、と著者はする。まずは、西洋における一神教が生まれた背景について見てみよう。

 厳しい自然条件のなかでは、いろいろと判断を迷わせるようなたくさんの神々がいては困るわけです。神やリーダーはたった一人でいいし、その神やリーダーが、いつも東か西か、攻めるべきか引くべきかを示してくれないとやっていけません。あとはすべて「神の思し召し」に従うだけである。 
 こうして、「砂漠の宗教」には唯一絶対的な一神教が確立し、二分法的な宗教文化や社会文化が広まっていったのです。(120頁)

 自然環境が物語を規定することがここで示唆されている。つまり、厳しい自然の中で生きる人々は、日常的に厳しい選択が迫られる。そうしたときに多様な解答というものはあり得ず、絶対的な解答を示す、絶対的な力を持つ主体を人々は渇望する。したがって、一神教はそうした厳しい環境によって創り出されたと言えるだろう。

 次に東洋における宗教について。

 「森林の宗教」の東洋では、さまざまな選択肢ごとにそれを司るたくさんの神々や仏たちを考え出したり、またそれらの神仏と調和しながら、人間の生きかたや生きる技術を高めていこうといった思想が発達していったのです。すなわち「多神教」や「多神多仏」の国々になったんですね。(121頁)

 多神教では多種多様な解答が存在し得る自然環境が前提となると著者はする。ここで留意したいことは、そうした環境が人間にとって必ずしも優しいということを意味するわけではない点であろう。つまり、人が生き易いか否かということではなく、日照りが続くときには雨がありがたく、雨が続くときには晴れ間がありがたい、といった多様で変化に富んだ環境ということである。

 こうした多様な外的自然を前提として、内的な自然のゆたかさを重視する東洋の思想の一つが老荘であろう。

 お互いの社会的な地位とか役割をいったん捨てて、「無」になってみることで、新しい関係をそこから生み出していくことができる。そうしたらどうかというのです。これは、さきほど説明した仏教における「空じる」という考え方とちょっと似ているようですが、「空」が「苦しみからの解放」を重視しているのに対して、老荘思想の「無」は「ちがいからの解放」を意図しているんです。 
 そこで、この、「無」になりなさいということを、べつの言いかたで、「無為自然」ともいいます。「あるがままに」ということです。そうすることによって、さまざまな差異を超えて本当の心の遊びというものと交じりあって、楽しめるということなんですね。これが老荘思想とかタオイズムというものです。(114~115頁)

 なにも老荘思想が東洋思想を代表するものであるということを主張するために引用したわけではない。しかし、現代のような多元的かつ多様な社会において、老荘思想の唱える無為自然ということの重要性は高まっているのではないだろうか。ともすると私たちは二者択一という西洋的なパラダイムばかりで物事を考えてしまう。Aと非Aという関係性からはお互いがお互いを理解できる縁を紡ぎ出すことが難しい。そうした違いに焦点を当てるのではなく、自分自身をありのままに受け容れ、多様な自分自身をたのしむという老荘の教えを、私たちは時に思い出したいものである。


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