2014年5月3日土曜日

【第279回】『哀愁の町に霧が降るのだ(上)』(椎名誠、新潮社、1991年)

 小説の善し悪しというのは私には分からない。しかし、小説家の方の表現や言い回しが参考になったり、なんとなく心地よかったりするということはある。私にとって、著者はそれに該当する小説家だ。

 思いがけず、自分でも信じられないくらい知的なかんじのセリフがぼくの口から出てきて、彼はすこし驚いたようであった。それはそうだろう、ぼくだって驚いているのだ。(65頁)

 口に出してみて、自分がそのようなことを考えていたことにはじめて気づくことがある。そうした新鮮な驚きを、このようなかたちで表現できる著者の感性というか技量に唸らさせられる。

 事態は早くも混迷と波乱の幕あけとなり、湯飲茶碗は倒れワリバシは虚空に飛んでバキリと折れた。 (中略) ソース瓶は倒れマヨネーズはぶるんとふるえた。あまりにもあまりにも妥協点のない取り合わせであった。両者は重苦しく睨みあったままずるずるとそのまま朝ごはんの部に突入した。 (中略) おお、なんということだ。これまでの二部門でまったくなにひとつ一致するものがなく、話し合いの糸口すらつかめず対立的に突っ走ってきた両者が、この重要な部門で期せずしてまったく同じ順列と組み合わせを口走ったのである。 場内はざわめき(三人しかいないけど)対立的両者は思わずお互いの顔を見合わせた。両者の歩み寄りは急速に進み、政情は早くも与野党一致の安定化路線に向かったようであった。(135~136頁)

 著者が雑誌の対談である方と「日本のうまいものベスト3」について語った際の描写である。形容するのが難しいのであるが、こうしたシーンを、過剰にではなく、シンプルにかつ面白く描写できるというのが凄い。

 しかしそれにしてもこういう唐突な、さてとこのへんでひと休みよっこらしょう、というかんじの傍若無人の章はいったいなんであるのか。識者とか正しい心をもった人々は「ん、まあ!」といって眉をひそめるだろうが、とにかくいまおれはそういうことに耳を貸している暇はないのだ。それでまあとりあえず思ったのであるが、これは「なかがき」というやつである。世の中に「まえがき」があって「あとがき」があるのだから「なかがき」があってなにが悪い。文句あっか、文句あるやつは前に出てこい!と言っているのである。(218頁)

 かくして「なかがき」が<誕生>した、とでも書くと知的なかんじになるだろうか。

 「おっかしいなあ……」 イサオがそこでひとり言を言った。その時、ついにおれたちはこらえきれなくなって大声で笑い出してしまった。イサオはそこでようやくすべてを理解したようであった。 「ちっくしょう!」 イサオはうめき、布団の上にぺたりとすわりこんだ。 「わっはっはっははは」 おれたちはそれぞれの布団の中でそれから長いこと笑いつづけたのであった。(314~315頁)

 四人+αで共同生活を送る著者たちが、その中の一人であるイサオにいたずらをしかけ、すべてが分かったあとの一コマである。青春という言葉は、このように暗喩によって表現しないと、臭くなりすぎるのかもしれない。いずれにしろ、ここまで清々しい表現というものを私はあまり目にしたことがなく、気持ちよい表現だ。

『走ることについて語るときに僕の語ること』 (村上春樹、文藝春秋社、2007年)

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