2014年4月29日火曜日

【第278回】『アルケミスト 夢を旅した少年』(パウロ・コエーリョ、山川紘矢+山川亜希子訳、角川書店、1997年)

 2004年頃に、職場の先輩方が本書を推奨していたので読んだ。その際にはあまり面白く読めなかったのが正直な感想であった。しかし、数週間前に本書を強く推奨される方と話す機会があり、改めて読んでみようと思った。前回と異なる読後感を抱いたのは、約十年の歳月の為せるものであろうか。

 羊飼いは旅が好きになってもよいが、決して羊のことを忘れてはならないのだ。(40頁)

 過去にこだわらずに今を選択することは大事だ。しかし同時に、過去にお世話になった存在への感謝を忘れてはならない。過去を抱きながら、そこにこだわり過ぎずに自由に選択することが重要なのだろう。

 「僕は他の人と同じなんだ。本当に起こっていることではなく、自分が見たいように世の中を見ていたのだ」(49頁)

 主人公が有り金すべてをだまし取られた後に感じたことである。旅立ちの決意をして異国に趣いた後に、言語が通じるために助けてくれるに違いないと思った相手から騙された。事実を客観的に観察することが重要である、ということは容易だ。しかし、観察する事実を選択するのが自分であるかぎり、どうしても自分が見たいように世の中を見てしまいがちだ。こうした見方を私たちが持っていることを自覚することが重要なのだろう。

 彼は新しいことをたくさん学んでいた。そのいくつかはすでに体験していたことで、本当は新しいことでも何でもなかった。ただ、今まではそれに気がついていなかっただけだった。なぜ気がつかなかったかというと、それにあまりにも慣れてしまっていたからだった。もし、僕がこのことばを、言葉を用いずに理解できるようになったら、僕は世界を理解することができるだろう、と少年は思った。(53頁)

 傍目八目を彷彿とさせる部分である。当事者として文脈の中に入り込んでしまっていると、そこで起きていることは自分たちにとって空気のようなものになってしまう。自分たちが日常的に吸っている空気について自覚できるのは、海や川の中で呼吸が苦しい状況を経た後に、日常の空気のありがたさを把握できるものだ。私たちは異世界を経験することで、自分の世界を自覚し、自分を自覚することができるのである。

 自分のらくだをもっとよく知るためにはどうすればいいか学び、らくだとの友情をきずくやいなや、彼は本を投げすててしまった。少年はそれまで、本を開けるたびに何か大切なことを学べるという迷信を持っていたが、ここでは本は不必要な荷物だと決めたのだった。(89頁)

 私たちは外的な知識の習得に汲々としてしまう。なにか新しい知識を手に入れたり、覚えたりすることで満足感をおぼえてしまうものだ。しかし、自分の中に意識を傾けて、そこから学びを得ること。同じような考え方は、古くは禅の考え方であり、臨済録(『臨済録』(入矢義高訳注、岩波文庫、1989年))等を参照されたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿