2014年4月13日日曜日

【第273回】『おどろきの中国』(橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司、講談社、2013年)

 アメリカと中国とを比較した場合、次の行動が読みづらいのは中国である。国民感情が時に激しくなって日本と対峙するタイミングを考えても、私たち日本人には予見しづらい。中国という国家が分かりづらいのは、なにも日本人だけではないらしい。その理由を、橋爪さんは端的に以下のように述べる。

 ヨーロッパのものさしで、中国のことが測れるか、という疑問なわけです。 で、そのものさしの中身を見てみると、国家はまず、世俗のものである。教会じゃない。国家は宗教でなくて、政治だけを行なう。これはキリスト教文明の伝統のなかで、だんだんそうなってきたんですけど、このものさしは中国を測るのに適当ではないんです。(20頁)

 ウェストファリア条約後に形成されたいわゆる政教分離がヨーロッパの政治・宗教におけるテーゼである。宗教と一体化した存在として国家を見ていたこと、政治主体として国家を見ていること。こうしたヨーロッパの歴史は、ウェストファリア条約から起算したとしても500年弱の話である。日本という国民国家もその系譜の中に位置しているわけであり、私たちの思考様式も然りである。それに対して、中国という政治体制は三千年であり、西欧近代的な尺度で測ることができないのは自明なのかもしれない。では、中国とはどのような存在なのか。

 EUはまあ、中国みたいなもの。逆に、中国は、二千年以上も前にできたCU、中華連合なんです。「なんで、中国がそんなに昔に中国になったか」という質問は、「なんで、EUがこんなに遅くにやっとEUになったか」という質問と、裏腹なんです。(29頁)

 大変興味深いことに、橋爪さんはEUを比較に用いてこのように述べている。一つの国民国家ではなく、国民国家の集合体であるEUのようなものである、というのである。このように捉えると、中国という存在をイメージしやすい。ではそれぞれの社会を束ね、中国という一つのかたちを為しているものは何か。

 中国にはこういう意味での神(God)はいない。そのかわりに「天」がある。天も永遠普遍なんです。(76頁) 中国はこうした、多民族・多文化の社会なので、すぐ「民族」の観念に訴えることができない。そこで、まず政治的統一をつくり出し、つぎに民族をつくり出す、という順番になる。政治的統一をつくり出すには、なにか、抽象的な理念が必要になる。(136頁)

 国民国家が民族もしくはナショナリティーに訴えて一つの主体を為せるのに対して、中国では民族以外の理念が必要になると橋爪さんはいう。その最も根源的な存在は、前段で引用した「天」という概念であり、それは『論語』(『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年))で何度も述べられているところからも明らかであろう。さらに興味深いのは、政治的統一をつくり出すために抽象的な理念が必要になるというプロセスである。このプロセスは、崇高な理念をもとにして国家を作り上げたアメリカとは真逆である。現代における中国の政治主体である中国共産党に関する橋爪さんの説明を引いてみよう。

 共産党とはどういう装置かというと、人びとが同じことを考える装置。そして権力を伝達する装置です。人びとが同じことを考えるのは教会もそうなんですけど、教会の場合、人びとがドグマに縛られ、リーダーもドグマに縛られる。ドグマに違反するリーダーは打倒されたり、交替させられたりして、運動が持続する。これが教会の論理です。こういうことが中国共産党にあってはならないわけだから、中国共産党には本当の意味でのドグマは存在しない。指導部が正しいと考えることが正しいのであって、ほかの人たちはそれを学習しなければいけない。「指導部が正しい」という前提が、ドグマなんです。それ以上踏みこんで、具体的なドグマを信奉する人間は、かえって粛清されてしまう。(147頁)

 橋爪さんによれば、ドグマがリーダーを規定するのではなく、リーダーがドグマとなるというのが中国共産党であり、中国の歴代の政治主体の根本的な理念となるそうだ。宗教や法ではなく、リーダー自体がドグマになるという発想を私たちは持つことが難しい。しかし、それが中国という国家を為す要諦となっていることを意識する必要があるだろう。

 最後に、やや長い引用となるが、大澤さんが指摘する、日中における歴史問題への指摘は非常に示唆に富んでいる。これを結びとしたい。

 日中戦争というのは、壮大な「意図せざる結果」のように思います。もともと、それほどの喧嘩をするつもりでもない相手と、めちゃめちゃな喧嘩をしてしまったようなものです。前線では、ひどい殺戮までしているのに、軍人が我に返って、そもそも「オレは何のためにこれをやっているのか」と問うと、それに対する明確な答えがない。ただ成り行きの中で、巻き込まれてしまっている。中国の内陸に攻め入った日本軍は、戦争の意味に関して、自覚が乏しかったと思う。 そう考えると、日中の歴史問題がなぜ何度でも再燃するのか、わかるような気がします。たとえば、南京事件のことは大きな問題になるけど、ぼくらはしばしば、そうしたいさかいが起きる原因は、単純な事実認識のちがいだと思っている。でも、事実認識の以前に、これは事実を解釈するためのフレームワークの問題ではないか。 謝罪をしたり、責任をとったりするには、大前提として、「こういう意図のもとで行なった。しかしこういう結果になった」という認識が不可欠です。しかし、そうした認識が日本側であやふやだ。南京で何人の犠牲者が出たかということの前に、そもそも、南京での戦いが「何であるか」を意味づけるフレームワークがない。だから、どう責任をとったらよいのかはっきりしない。中国からすると、これほどのことがなされているのだから、日本側によほどの意図があったはずだ、と見なされるわけですが、日本の方からすると、その肝心な部分が空虚なままなので、応答しようがない。(264~265頁)


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