なぜ歴史を学ぶのか。歴史をどのように現代の私たちの考え方や生き方に活かすことができるのか。
古い時代を研究していても、思想史学というものは、昔の人が考えたことをもう一度自分で考えて吟味するということをしますので、思想に関係する者として現代の問題を考えないわけにはいかないのです。(1~2頁)
思想史を学ぶということは、その内容を吟味し、反芻することであり、その現代への含意を考えるということに繋がるものだと著者はしている。したがって、私たちはある思想の現代における意味合いを考える場合には、その思想が生み出された時代背景を前提条件として考える必要がある。
「鬼神を遠ざける」のは合理主義にかなっているが、「鬼神を殺して」というのは鬼神の存在を容認するもので、むしろ合理主義に反するように見えると申しました。しかし、それは私たちの理性優位の立場で考えるからのことです。孔子の時代には神霊の存在を完全には抹殺できないような状況があって、孔子はその現実をふまえて「敬して」と言ったとすると、それはやはり現実を尊重する合理主義から出ていることになります。この場合、「敬して」は、尊敬の意味よりも、慎重につつしみ深く扱うという意味にとる方が、よりふさわしいでしょう。そして、そう解釈すると、下の「遠ざく」とも同じ合理主義のあらわれとしてよどみなく理解することができます。つまり、現実的な配慮を加えた特殊な合理主義として考えようというわけです。(75頁)
ある時代における価値観や時代精神というものを括弧に入れて現代の意味合いとして解釈してしまうと、ある思想の持っている可能性を殺してしまいかねない。ここではその例として孔子の生きた時代における鬼神の存在が挙げられている。
鬼神を信ずる人が一人でもいれば、それを無視して抹殺するのではなくて、それ相応の配慮を加えてゆくというのが、儒家的合理主義でした。これでは社会の進歩はあるいは遅いかも知れません。しかし、恐らく社会はひずみ少なく調和的に発展してゆくことでしょう。そして、これは今日の民主主義の発展にも役立つ考え方ではないかと思うのです。合理主義という名のもとに、少数者や弱者の人権が脅かされることの指摘は、このごろではよく見かけることです。単純な多数決は衆愚政治へと堕落します。少数の意見として疑わしい内容であっても、それをはっきり実証的に論破できないとすれば、それを「敬遠する」態度で保留しておくのが、現実的な正しい処置でしょう。保留という時間的推移のなかで、その疑わしいことが消滅するかそれとも真実性をあらわすかが、期待されているのだと言えます。(89~90頁)
著者が指摘するような、前述した鬼神の捉え方があればこそ見出せられる現代的な意義である。民主主義の持つ限界性と、ダイバーシティの有する可能性、という二つのものを、鬼神を論じることで見出せるのである。
矛盾する二つは、絶対にあい容れない。相手を排斥しあって協調することはありません。しかし陰陽的な対立では、反対でありながら相手の存在を認める。相手があることによって自分の存在の意味がいっそう明確になる、ということをわきまえているのです。(中略) 『老子』の中では、「有と無とはあい生ずーー有ると無いとは互いに相手があって生まれる」と言って、「存在しない」ということがあるから、はじめて「存在する」ということもいえるのだ、と主張します。つまり、有ると無いとは相対的な概念だから、どちらもあってこそ成立するのであって、片方だけでは成立し得ないというわけです。(105~106頁)
好きか嫌いか、賛成か反対か、白か黒か。現代の日本を生きる私たちは、とかく二元論的に物事を見てしまい、判断することで思い悩む必要がなくなることに安心を見出してしまいがちだ。しかし、どちらか一方だけが正しく、反対概念を認めずに排除するということは、もう一方の存在をも消すことに繋がるのではないか、というのが『老子』(『老子』(金谷治、講談社、1997年))の現代的な解釈である。現代の私たちを取り巻くパラダイムが一方的に間違っているということではないが、そこにある限界や危険性について自覚的になることは必要であろう。
対立するものがその対抗性を失わないで「競い立ち」ながら、しかも相手を容認して譲るべきは譲るというあり方、個を貫きながら全体の調和の理想を追求する姿勢、絶えず変動する状態のなかで広く情報を集めて安定した中を求める態度、そうした複合的なあり方のなかに中庸の神髄はあるようです。(162頁)
個を殺して全体に合わせるのではなく、また、全体に対する意識をなくして個を重視するのでもない。対立項目を両立させるということは、個と全体とをともに活かすという中庸の精神に結びつく。多様性と統合性とが同時に求められる現代社会において、こうした考え方は有意義であろう。
生と死とは連続していて、死は生を断ち切る形であらわれるのですが、その死の意味は生の意味によって決定づけられるのです。人生に対する孔子の真剣な取り組み方、人生問題についての孔子の強い集中性こそは、それを証明して余りがあるように思います。(173頁)
二項対立は、ここで生と死という究極の二つの反対概念へと至る。生と死とをいたずらに分けるのではなく、死を考えるためには今を生きるという感覚を持つこと。だからこそ、いま生かされている自分という意識を持つことが大事なのであろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿