本書は、帝国時代から近代へ、近代から現代へと時間軸を推移させながら、現代という時代の特徴を浮かび上がらせるものである。時代の特徴とともに、それぞれの時代を支配するパラダイムを明らかにすることで、私たちの生活や生き方について考察をしようとする意欲作と言えるだろう。
まず、複数の帝国から成る世界から眺めていこう。その特徴として、著者は二つの点に要約している。
第一には、帝国は多民族国家だったということ。 第二には、帝国と帝国を結ぶゆるやかな世界の交易ネットワークがあったということ。(63頁)
多民族から成る国家であったということは、近代における共同幻想としての一つの<国民>から成る国民国家と比較することでイメージを持ちやすいだろう。つまり、現代における私たちが思い描く国家像と、当時の国家とは全く異なるものであり、帝国間の境界が曖昧としたゆるやかなものであったということである。境界がゆるやかであるということから、第二の点が導き出される。すなわち、帝国同士が緊張関係を維持するというよりも、お互いが安定的に共存できるような交易が行なわれていたのである。
こうした安定的で相互依存的な帝国の時代を終わらせたのが、帝国時代においては辺境にすぎなかったヨーロッパである。国民による国家というシステムを生み出した西欧近代の登場により、帝国は終焉したのである。では西欧近代を構成する近代の世界システムとはどのような要素から成り立っていたのであろうか。著者は四つのポイントに絞って説明を試みている。
国民国家であること。 国民国家のウチの結束を固め、強い軍隊を持つこと。 国民国家のソトを利用し、経済を成長させること。 そして国のウチでは、民主主義で皆で国を支えていくこと。(142頁)
共同幻想としての一つの国民という物語を中心に置くことで、ウチとソトという概念を生み出したのが近代である。近代では、帝国時代における傭兵による戦争から、国民の国民による国民のための戦争を可能とするためにウチの結束を固め、ソトとの緊張関係に備えることが常態であった。ソトとの緊張関係とは、戦争という暴力だけではなく、ウチの経済成長を実現するためにソトにある資源を活用するという戦略も該当する。
さらには、国民国家のウチにもまた、ウチとソトの原理が成り立っていた。つまり、民主主義を構成する経済活動を活性化するために、業界間における絶え間ざるポジショニング争いが展開されたのである。売り手側と買い手側、上流と下流、といった対称関係において、有意なポジションを得ようとするダイナミックな競争が展開されたのである。こうした原理は際限なく細かい単位に分解されて展開される。つまり、業界における競合他社間の競争、企業の中における社員間の出世競争、といった具合である。いずれにしろ、ウチとソトとを切り分けることが、西欧近代が生み出した国民国家のパラダイムの要諦と言えるだろう。
こうした一つの国民国家を前提としたウチとソトの関係性を崩壊させつつあるのが現代の情報技術であり、その変化こそがグローバリゼーションの本質であると著者はする。国民国家を支える企業から、グローバルに展開する企業、たとえばApple、Google、Facebook、Amazonを考えれば分かり易いだろう。その特徴について著者は以下のように述べる。
さまざまなレイヤーのうち、その時どきでもっとも強いレイヤーが権力者になり、その<場>を支配するようになる。<場>とレイヤーは、そういう作用で動いているのです。 ここでは化粧箱のように人びとを束ね、上から見下ろして命令する権力はありません。そうではなく、下から人びとを支え、人びとを管理する。 それが新しい権力の形、新しい権力と人との関係なのです。(209頁)
ウチとソトという静態的な切り分けから、レイヤーという動態的な切り分けによる分類が現代社会の新たなパラダイムとなりつつあるという指摘であろう。レイヤーは可変的であるために、一つの主体が指示・命令によって押さえつけるということではなく、下からじわじわと影響力を発揮するということが特徴であろう。スマートフォンのOSというレイヤーで考えればAppleとGoogleは競合するであろうが、Googleの検索システムはiPhoneを支え、MacBookが利用されるほどGoogleの検索システムの利用数は増大する。こうして、指示・命令関係が複雑に入り組み、レイヤーに応じてポジショニングが異なる関係性が構成されることとなる。
こうした関係性はなにも企業や組織という単位だけではなく、個人にも影響を与え、個人においてもレイヤーによる分類がなされる。
レイヤーにスライスされて自分という個人は切り分けられてしまっているけれども、切り分けられているからこそ、それぞれのレイヤーで他の人たちとはつながりやすくなるということなのです。(213頁)
レイヤーによって切り分けられている状態とは、近代におけるような一つの<国民>という外的な統合体が存在し得ない状態である。したがって、近代の精神構造で考えてしまうと、あたかも自分自身が細かなレイヤーに分類されて統合されていない感覚を持ちやすい。そうした切り刻まれた感覚を無理に統合しようとソトに求めてしまうのが、ナショナリズムであるネオ・コンサヴァティズムという懐古的な思潮系統なのかもしれない。そうではなく、現代においては、ソトに統合体を求めるのではなく、ウチにある多様なレイヤーをもとに、それぞれのレイヤーの中で主体的に関係性を結びつける。しなやかで地道な営みが、現代に生きる私たちには求められていると言えるだろう。こうした現代において私たちに求められるマインドセットを著者はメッセージとして述べている。それを最後に引用して本稿を終わりにしたい。
レイヤーでつながろう。 <場>と共犯し、<場>を利用し、<場>に利用されよう。 そして、<場>の上を流れていこう。 大地の上を、動き続けよう。(268~269頁)
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