人々が自由という概念に包摂させる意味内容は、前近代から近代へと時代が移る中で変化を遂げた。近代的な意味での自由な社会において、当初は起こりえないと考えられたファシズムによる政権奪取と第二次世界大戦への道程を、フロムはどのように考えたのか。まず、フロムが捉えた近代的な意味での自由とは何かを見ていく。
個性化の過程は、個人のパースナリティがますます力を獲得し完成していく過程であるが、同時に他者と一体になっていた原初的な同一性が失われ、子どもが他者からますます分離していく過程でもある。この分離が進む結果は、淋しい孤独となり、はげしい不安と動揺とを生みだす。もし子どもが、内面的強さと生産性とをもっているならば、他者との新しい親密性と連帯性が生まれるであろう。この内面的強さと生産性とは、外界との新しい関係が成りたつための前提である。(40~41頁)
近代的な意味での自由とは、人々が個性化する中で生じるものであり、その結果として原初的な他者との同一性が喪失される。そうした社会において個人に求められるものは、本来的に個性化されながらも、失われた同一性や連帯性を自らの力で取り戻すという内面的強さと生産性である。経済学や経営学で前提とされる、自由と自己責任という現代的な考え方の萌芽がここで述べられている点に注目するべきであろう。
本能によって決定される行動が、ある程度までなくなるとき、すなわち、自然への適応がその強制的な性格を失うとき、また行動様式がもはや遺伝的なメカニズムによって固定されなくなるとき、人間存在ははじまる。いいかえれば、人間存在と自由とは、その発端から離すことはできない。ここでいう自由とは「……への自由」という積極的な意味ではなく、「……からの自由」という消極的な意味のものである。すなわち、行為が本能的に決定されることからの自由である。(42頁)
ここでフロムは近代的な自由について、端的に「行為が本能的に決定されることからの自由」という定義を行なっている。原初的な関係性や同一性によって、生まれや育ちによってなかばアプリオリに行動が規定される前近代からの脱却が、本能から隔離された自由を私たちにもたらしたのである。先に引用したように、薔薇色の人生が私たちに約束されているということではなく、膨大な可能性とともに、一人で他者との関係性を構築していく強さとが求められる社会である。
こうした近代の自由に至るまでの経緯についても、フロムは触れている。まずは、宗教改革の時代における自由に関する考察を見てみよう。
ルッターの人間像はまさにこのディレンマをうつしている。人間はかれを精神的な権威にしばりつけているあらゆる絆から自由になるが、しかしまさにこの自由が、孤独と不安感とをのこし、無意味と無力感とで人間を圧倒するのである。自由で孤独な個人は、自己の無意味さの経験におしつぶされる。ルッターの神学はこの頼りなさと疑いの感情とを表現している。(中略) しかしルッターは、かれが説教していた社会階級のなかに広まっていた無意味感をとりあげたばかりではなく、かれらに一つの解決を提供した。自分の無意味さを認めるだけでなく、自分を徹底的にないものにし、個人的意志を完全にすてさり、個人的力を徹底的に拒絶し告発することによって、かれは神に受けいれられることを希望できるのである。(89頁)
宗教改革の主要な人物の一人であるルッターは、このように個々人の持つ自由を放棄して神に絶対服従することを述べたとフロムはしている。意志や目的を持っていると、それが実現しなかったり、その実現に向けた過程の中で苦しみを経験することになる。それは自由が故の苦しみとも言えるだろう。そうした自由を手放して、神に全面的に委ねることで、こうした苦しさからの解放をルッターは提唱したのである。ここで「神」を「政府」に置き換えれば、ドイツ人がファシズムへと傾倒した心象を解説するものにもなることに留意したい。
カルヴァンの予定説には、ここではっきりと指摘しておくべき一つの意味が含まれている。というのは、予定説はもっともいきいきとした形で、ナチのイデオロギーのうちに復活したからである。すなわちそれは人間の根本的な不平等という原理である。カルヴァンにとっては二種類の人間が存在する。ーーすなわち救われる人間と永劫の罰にさだめられている人間とである。この運命はかれらの生まれてくる以前に決定され、この世におけるどのような行為によっても、それを変化させることはできないというのであるから、人間の平等は原則的に否定される。人間は不平等に作られている。この原理はまた、人間のあいだにどのような連帯性もないことを意味している。というのは、人間の連帯性にとって、もっとも強力な基盤となる一つの要素が否定されているからである。すなわち人間の運命の平等である。カルヴィニストはまったく素朴に、自分たちは選ばれたものであり、他のものはすべて神によって罰に決定された人間であると考えた。この信仰が心理的には、他の人間にたいする深い軽蔑と憎悪とをあらわすことは明らかである。(97頁)
ここでフロムは、ルッターとともに宗教改革の主要な担い手であったカルヴァンを持ち出す。カルヴィニストに選民主義の萌芽を見出し、アーリア人種の優越性によってファシズムを推進したナチズムとの連動性を指摘する。宗教改革については、腐敗したローマ教会への反対行動ということばかりが強調されることが多いように思える。しかし、こうした自由からの逃避行動という後のファシズムの思想的背景を為している点を見逃すわけにはいかない。
経済的な関係ばかりでなく、人間的な関係もまた、この疎外された性格をおびている。それは人間的存在の関係ではなく、物と物との関係である。(中略)商品と同じように、これらの人間の性質の価値をきめるものは、いや、まさに人間存在そのものをきめるものは、市場である。もしある人間のもっている性質が役に立たなければ、その人間は無価値である。ちょうど、売れない商品が、たとえ使用価値はあっても、なんの価値もないのと同じである。(136頁)
フロムによれば、自由を基底とした近代的な人間は疎外されることになるという。関係性が固定されていないということは、その場その場において求められる関係性が変化し、それに応じていわば各人の価値が変容する事態を招く。人間の価値が変容するという発想は、人間を物と同視することと相違ない。
神、摂理、運命よりもおそらくヒットラーを感銘させる力は自然である。人間にたいする支配を自然にたいする支配で置きかえることが、最近四〇〇年間の歴史的発展の動向であったのに、ヒットラーは、ひとは人間を支配でき、また支配しなければならないが、自然を支配することはできないと主張する。(中略)かれは人間は「自然を支配しているのではなく、自然の法則と秘密を少しばかり知ることによって、この知識をもたない他の生物の主人としての地位に上ったのである」という。ここでもまた、自然はわれわれが服従しなければならない偉大な力であるが、生物はわれわれが支配すべきものであるという同じ考えがみられる。(257~258頁)
近代的人間が自由を委ねる存在が求められる一方で、そうした存在には自由を委ねられる理由が必要である。そうしたロジックを、ヒットラーはアーリア人種による支配という形式で提供した。自由から逃走したい人々は、その自由を包摂してくれる主体に喜んで自由を提供した。大いなる誤解に基づく疎外関係がこうして完成し、私たちを戦争の惨禍へと招いた歴史的な事実から私たちは学ぶべきであろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿