本当の友だちとは何か。この問いは親友という言葉に置き替えても構わないだろう。こうした本当の友だちや親友を渇望する人が多いという話も聞くが、そうした人びとは、本当の友だちや親友をどういった存在だと考えているのであろうか。
私たちはある種の共同体的なつながりや関係の中で培ってきた、とりわけ日本人的な親しさの作法をお手本にし続けています。そこには確かに、損得を超えて人を全面的に包み込むような温かみや情愛の深さを受け継いでいる面もあるかもしれません。だから無下に否定してしまうわけにはいかないという側面が確かにあります。しかし、みんな同じような職業や生活形態を前提とするムラ的な共同体の作法では、もはや親しさを維持することはできないほど、私たちの置かれている状況は以前とはすっかり変わってしまったと考えた方がいい。ムラ的な伝統的作法では、家庭や学校や職場において、さまざまに多様で異質な生活形態や価値観をもった人びとが隣り合って暮らしているいまの時代にフィットしない面が、いろいろ出てきてしまっているのです。そろそろ、同質性を前提とする共同体の作法から、自覚的に脱却しなければならない時期だと思います。(24~25頁)
現代社会は前近代社会と異なる社会であり、江戸時代の人びとが生きていた時代と現代とは異なると考えている人がほとんどであろう。私もそう思う。しかし、江戸時代の人びとが生きていたムラ社会的な意識を、現代を生きる人びとは今でも持っているのではないだろうか、と著者は警鐘を鳴らす。前近代社会は、生来の身分に基づき職業や生活が固定的で職住が近接しており、様々な観点から自分に近い他者に囲まれ、同質的な関係性を前提としたコミュニケーションが求められた。それに対して現代の私たちは、内面においても外面においてもダイバーシティがキーワードとなるような多様な人びとが混在する多様な社会を一人の人間が統合する多面社会を生きている。
こうした変化を踏まえず、親しい存在を前提として存在した同質的な他者と、ほぼ全てを分かり合える関係性を築くという前近代的パラダイムで他者付き合いをしようとしたらどうなるか。現代には、前近代のパラダイムにおける同質的で自他を隅々まで理解し合えるような親友や本当の友だちという存在はあり得ないだろう。時代が違うのだから当たり前であるが、パラダイム変容を自覚しなければ、そうした誤りは起きてしまい、自分で自分自身を苦しめる結果に陥る。
こうした前近代社会を鏡として対比した上で、現代社会における幸福を構成する存在を著者は37頁で端的に指摘している。
① 自己充実 ② 他者との「交流」 イ 交流そのものの喜び ロ 他者からの「承認」
ここで注目すべきは、まず「自己充実」という自分を主体とした概念が第一に挙げられている点であろう。私たちは、幸福という言葉から他者との比較や他者との関係性といった他者をありきとしたものを想起しがちだ。著者の解釈から飛躍することを覚悟で述べれば、こうした自分自身を自分で承認できるということが第二の他者との「交流」の前提になるのではないだろうか。というのも、自分自身を承認できない中で他者と交流してしまえば、自分自身が至らないと思う点を他者の言動に投影し、自分自身を否定し、他者をも否定することになりかねない。つまり、自分自身に対するヘルシーな関係性を前提として他者との関係性をヘルシーにすることで、私たちは幸福というものを感じられるのではないだろうか。
こうした健康的な関係性を志向する上で、私たちに求められるマインドセットを著者は以下のように指摘している。
過剰な期待を持つのはやめて、人はどんなに親しくなっても他者なんだということを意識した上での信頼感のようなものを作っていかなくてはならないのです。(中略) むしろ「人というものはどうせ他者なのだから、百パーセント自分のことなんか理解してもらえっこない。それが当然なんだ」と思えばずっと楽になるでしょう。だから、そこは絶望の終着点なのではなくて希望の出発点だというぐらい、発想の転換をしてしまえばいいのです。(128~129頁)
旧来的なスタティックな社会における他者との同質性を前提にした交流パラダイムからの転換を促す上で、役に立つマインドセットであろう。重要な点であるため、二つに分けて考えてみたい。
第一に、「人はどんなに親しくなっても他者なんだ」という諦めをまず持つことである。諦めという言葉は、仏教における「明らかに見極める」という言葉から来ていることは有名であるが、他者という存在を軽視するのではなくそのありようを見極めることである。自分と異なる多様な他者を充分に理解することは、翻って自分自身を理解することにも繋がるだろう。
第二に、他者との相違が存在することを認めた上で、それを「絶望の終着点なのではなくて希望の出発点」と捉えることである。つまり、同質的関係性パラダイムを引きずる私たちは、ともすると、相違があること=分かり合えないこと=関係性を築けないこと、というように相違を否定的な帰結に結びつけ易い。しかし、異なるからこそ他者を知りたいと思ったり、協働することで想定を超えるチームワークが導き出せるということがあるだろう。相違があるということを可能性の源泉として捉えること。これが、現代に生きる私たちの第二のポイントであると言えるだろう。
こうした、前近代社会と異なる現代社会であるからこそ、必要とされるのがルールである。しかし、ここにおいても、前近代社会的パラダイムで思われるようなルールという概念への否定的態度でなく、ルールをむしろ肯定的に捉えることが現代では重要だ。
ルールというものは、できるだけ多くの人にできるだけ多くの自由を保障するために必要なものなのです。 なるべく多くの人が、最大限の自由を得られる目的で設定されるのがルールです。ルールというのは、「これさえ守ればあとは自由」というように、「自由」とワンセットになっているのです。 逆にいえば、自由はルールがないところでは成立しません。(86頁)
なんでもやっていい、と言われると、私たちはかえって自由に振る舞うことができず、他の人がやっているように、以前の慣習を踏襲するように動いてしまう。そうではなくて、私たちが自由さを発揮できるようにルールを整えることが社会においては重要なのだろう。幼少の頃を想い出してほしい。私たちの多くは、ゼロから新しい遊びを創り出すのではなく、既存の遊びをよりエキサイティングにするように少しルールを変えたり、縛りを緩くしたりしたのではないか。ビジネスでも同じだ。M=ポーターが『日本の競争戦略』で「Japan as number one」時代の日本についていみじくも述べたように、官僚に因る規制が日本企業のイノベーションを促進したという事例もあるのだ。
最後に、企業における教育に携わる身として、教育者に対する著者の主張にハッとさせられたので、自戒を込めて引用して終りにしたい。
では、なぜ私は、「生徒の記憶に残るようなりっぱな先生をめざすことはない」なんて、頭から冷や水をあびせるようなことを学生に伝えようとしているのでしょうか。 私から言わせれば、先生というのは基本的には生徒の記憶に残ることを求めすぎると、過剰な精神的関与や自分の信念の押し付けに走ってしまう恐れがあるからです。だから生徒の心に残るような先生になろうとすることは無理にする必要はなく、それはあくまでラッキーな結果であるくらいに考えるべきで、ふつうは生徒たちに通り過ぎられる存在であるくらいでちょうどいいと思うのです。(98頁)
『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年)
『自由からの逃走』(E・フロム、日高六郎訳、東京創元社、1951年)
『気流の鳴る音』(真木悠介、筑摩書房、2003年)
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