2016年1月2日土曜日

【第533回】『悪の力』(姜尚中、集英社、2015年)

 私たちの耳目に膾炙する悲惨な事件の数々。そうした事件を起こす犯人に対して、日常的には冷静なタイプであると自身を分析する著者が、憤りを感じざるを得ない心的情況に驚いたことで、悪を考察したいと考えて著したのが本書の執筆動機であるという。

 「必要悪」という言葉がいみじくも表しているように、悪とは、私たちの中に可能態として潜む存在である。こうした考え方に則って、悪がなぜ暴力的なかたちで顕在化してしまうのか、以下のように解説している。

 さまざまな価値が相対化される私たちの社会の中で、これまで考えられなかったような原理主義や反知性主義が、なぜここまで台頭してきているのでしょうか。
 それはやはり、私たちが空虚さに耐えられないからです。
 自分たちがどこに拠って立っているのかわからない。善悪を含めてしっかりとした基準や価値が欲しくても、それが非常に曖昧になっているので、何を信じていいのかわからない。(中略)
 悪というものは、こうした善悪の基準が曖昧になった、「何でもオーケー」の世界が大好きなのです。悪は空虚な存在にするりと忍び込んで、その身体を乗っ取ってしまうのです。そして個々人の持つ身体性、生きている実感をさらに奪っていき、そうして広がっていく虚無の中で、世界をぶち壊したい、人を傷つけたいという破壊衝動を育てていくのです。(55頁)

 ポストモダンが唱えられてから半世紀以上も経ち、価値観が相対化された社会という文脈が当り前のように共有される時代となった。そうした相対的な価値観に根ざした社会においては、自分自身が当座において何かにコミットするという意志が求められる。そうした意志を下せない人にとっては、他者から絶対的な何かを提示されないと不安に思ってしまう社会であるとも言える。あれもこれも選べる状態というのは、主体的な意志を持たない人にとっては、あれもこれも選べない状態だ。こうして、自身で主体的に選択できない人の心の中に生じる空白のスペースに悪が顕在化していく、という説明は感覚的に理解できよう。

 悪とは何かといえば、世界と自分への嫌悪が外側に転嫁したときに生まれる暴力や破壊行為です。それは他者のみならず、自らをも破壊していくのです。(160頁)

 悪とはなにも他者に向けたベクトルのものではなく、自分自身にもベクトルは向かっている。<異常>な殺人やテロリズムは、<異常>に増えた自殺と同じ問題におけるコインの裏表にすぎない。

 人間の中にはどうしようもない空虚があり、虚無があるものである。だからこそ、喜怒哀楽の中に営まれる人間の日々があるのだと、漱石は世間の細部を描いて見せました。しがらみにとらわれた人間の日々の暮らしを、漱石は達観して、喜劇だと言いました。
 しかし、悲劇が起きたとき、その喜劇の本質があぶり出されるのです。悲劇はさまざまな形で、日常の平穏を奪っていきます。それは親しい人の死であったり、突然の解雇であったり、いわれのないいじめであったり、あの『変身』のグレゴール・ザムザの身に降りかかったような理不尽で不条理な出来事であったりします。その不安も虚無も、漱石は冷静に見つめ、その悲喜劇の中でこそ、人間は共に生きる意味があるのだということを示したかったのではないか。(172~173頁)

 外化し得る悪を内包しながら、いかに生きるか。悪事を為さないように内に籠るのではなく、むしろ世間という外部と相互交渉を行ないながら、内観して自身をコントロールすること。私たちが現代社会で生きていくうえで大事にしたい考え方である。


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