著者は日本を代表する数学者である。以前読んだ小林秀雄との対談が面白く、著者の本を他にも読んでみようと思った。本書もまた、含蓄があり、読み応えのある興味深い一冊であった。
数学者である著者が、数学という学問をどのように捉えているのか。私にとっては、甚だ意外な表現をもって説明をされている。
数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。(3頁)
情緒や芸術といった、およそ数学が持つ堅いイメージとはかけ離れた言葉で表現されている。さらに、数学と芸術について、著者はその共通点を別の箇所で記している。
数学の目標は真の中における調和であり、芸術の目標は美の中における調和である。どちらも調和という形で認められるという点で共通しており、そこに働いているのが情緒であるということも同じである。だから両者はふつう考えられている以上によく似ている。(164頁)
数学と芸術の共通点は調和を具現化するものであるとしている。調和を重んじる学問であるのだから、本来は人を重視するものであると著者は述べた上で、現状の学問に対して警鐘を鳴らす。
学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、人を生理学的にみればどんなものか、これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか。(11頁)
学問は人を大事にするべきものであり、機械のように自動的に為されるものではない。さらには、動物との違いという観点でも考えるべきであると著者は続ける。
人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。渋柿の芽は甘柿の芽よりずっと早く成育するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。(12頁)
人を重んじ、調和を為そうとする数学という学問。そうした学問を涵養しようとするためには、促成栽培のように子どもを教育するのではなく、じっくりと成熟するように教育することが大事であると著者は述べる。成熟するということは、人の心を理解するということである。
人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。(15頁)
人の心を理解するということは、緻密さが必要であると著者は述べる。物事に対して粗雑に対応するということは、徒に観念的に対応するということに他ならない。緻密に対応するには非常な時間が掛かるわけであり、それが成熟するということなのである。
全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。種子を土にまけば、生えるまでに時間が必要であるように、また結晶作用にも一定の条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてからかなりの間をおかなければ立派に成熟することはできないのだと思う。だからもうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時はもう自然に問題は解決している。(36~37頁)
むろん、成熟には時間が掛かる。したがって、辛抱強く、ひたすら、考え続け、行ない続けることである。何度も失敗を繰り返してあきらめそうになっても、もう少しだけ踏ん張って考え、工夫して取り組んでみること。そうした果てしない努力の結果として、時に、取り組んでいる対象のかたちが見えてきて、対象が姿を現す。問題が対象として現出すれば、その解決の方向性も自ずと見えてくる。では、こうした取り組み姿勢をどのように涵養することができるのであろうか。
動物性の侵入を食いとめようと思えば、情緒をきれいにするのが何よりも大切で、それには他のこころをよくくむように導き、いろんな美しい話を聞かせ、なつかしさその他の情操を養い、正義や羞恥のセンスを育てる必要がある。(82頁)
人を大事にするためには、情緒を育むことが肝要であり、情操、正義、羞恥のセンスを育むことが必要である。こうした他人のこころを理解するためには、他者の悲しみを理解することが重要であるようだ。
道義の根本は人の悲しみがわかるということにある。自他の別は数え年で五歳くらいからわかり始めるが、人の感情、特に悲しみの感情は一番わかりにくい。(90頁)
他者の悲しみを分かるようになるということが、情緒を育むことの重要な点である。人のうれしさやたのしさといったポジティヴな側面ではなく、悲しみという一見してネガティヴな側面への理解に焦点を当てるというのは趣き深い。こうした他者への慮りこそが、理性の本質である。
何かについて述べた意見を人がよく聞いてくれそうになったり、書物を書いてよく売れたりしたときに、朝ふと目がさめて自分のいっていることに不安を感じる。この不安な気持が理性と呼ばれるものの実体ではないだろうか。ところがその不安、心配、疑惑を取り去ってしかも理性らしい頭の働かせ方をすると観念の遊戯といったものになる。近ごろ、本を出すといったことはかなり流行しているが、それらはかなり前から観念の遊戯になっているのではないかと思えるふしがある。(102頁)
観念の遊戯へと堕すことないように、理性には慎み深さが求められるのであろう。自戒を込めながら、噛み締めたい珠玉の言葉である。
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