本書は、日本の歴史、とりわけ江戸末期から明治へと至る過程におけるナショナリズムの高揚と近代化に焦点を当てて、その一般化を試みる意欲作である。まず、アイデンティティとナショナリズムとの関係性を論じた興味深い部分の引用からはじめよう。
アイデンティティというものは、元来は、我々がよく想定しがちなように、「私は私だ」という形で固定されているのではありません。むしろ、我々はたくさんの「私」を無意識のうちに切り替えながら暮らしているのです。
ところが、この瞬時に切り替わる流動的なアイデンティティが、その文脈を抜けだして、固定された、いわばモノとして我々を拘束しているかのように見えることがあります。
その典型例が、実は「国民」というアイデンティティなのです。(33~34頁)
アイデンティティが多様な他者との複数の関係性からなる「私」の統合体であるという考え方はジンメル(『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年))をはじめとした社会学者の著書を読めば明らかだろう。そうした複数のアイデンティティの中において、ナショナル・アイデンティティ、つまりはナショナリズムのみが固着化し切り替わらない特徴を有していると著者は言う。これは興味深い指摘であり、実感知としても納得的である。
日本における近代以降のナショナリズムの源泉には、江戸時代からの識字率の高さが指摘されることが多い。しかし、中国を見れば分かるように、識字率がたとえ高くても、地域における言語の差異が大きければ、同じ<国民>同士であってもコミュニケーションを取ることは難しい。日本ではなぜ、地域の細かな差はあれども、遠く離れた人々がコミュニケーションを取れたのであろうか。
村芝居の分布は意識的に日本人という枠組みをつくったわけではありません。しかし、無意識のうちに遠隔地に住む人々が共通の文化要素を共有するようになり、特に話し言葉を理解できるようになった。日本という想像力を担う都の言葉を、あちこちに暮らす地方人、それも読み書きのできるお金持ちだけでなく、庶民までがある程度は分かるようになっていた可能性があるわけです。いざ必要となると、話を交わし、直ちに協同行動に入れるような基礎条件が生まれ、それが同時に日本の外部との境界をつくっていたということです。(62頁)
コミュニケーションを行なう上での基礎となる口語について、村芝居という形態が広い地域に伝播していることによって共有されていた。ベネディクト・アンダーソンが述べるように、私たちは言語を共有することによって「想像の共同体」を自然に無意識に創り上げる。日本においては、西洋における活版印刷術によって各言語に翻訳された聖書が国境を創り上げたのと同じ作用を、村芝居がもたらした。
さらに、ナショナリズムを構成するためには、<外>との境界が必要となる。<外>に対する境界を創り上げるのには、鎖国という制度が寄与したことは想像に難くないだろう。しかし私たち現代の日本人が習うのとは異なり、鎖国という現象は家光の時代に完成した事象ではなく、松平定信の時代に完成したと著者はする。さらに、定信が完成させた鎖国へと至る歴史的経緯が、幕末における当初の排外的な姿勢を生み出したと述べる。
定信が外国は一般的に来てはいけないと決めてしまったために、幕末に大問題になった。その後、一九世紀前半の日本人は、事件が起きる度に世界から孤立してゆく道を選んでゆきました。そして、この「鎖国」はほんの少し前に定信が決めたことだったのに、徳川家康が決めたことだと思い込むようになりました。我々は、江戸時代初めからずっと閉じ籠もってきたのだと思い込んだのです。
ペリーはこの狭く、硬直した部分を直撃しました。軍事的圧力をかけて、外からこじ開けようとした。これは武士にとって許し難い侮辱です。戦士が最も不名誉な形で付き合いを強要された。拒絶するに足る軍事力がないのが分かっていたので、仕方なく付き合わざるをえなかったのですが、国内には強烈な屈辱感が生まれた。ご存じのように、それが徳川幕府が権威を失う重要な出発点になりました。(212頁)
家光は交易可能な国家を限定しただけであり、それを外国全般との交易を禁止したのが定信であり、その意思決定を以て鎖国が完成した、と著者はしているのである。外国全般とのやり取りを自ら制限しているという意識があった当時の日本人、特に武士層にとって、武力を以て開国を逼られたのが屈辱に感じられたのは容易に想像できよう。
幕末の日本には、ナショナリズムが成立するためのいろいろな条件が熟しており、そこにペリーが来た。いわば過飽和溶液ができていたところに、外から小さな刺激が加わった。小さな種が放り込まれて、あっという間にナショナリズムが結晶してゆく。(64頁)
<内>における言語の共有と、鎖国による<外>との境界線の明確化という二つの条件がある中で、ペリーという外からの刺激によって日本におけるナショナリズムが誕生した。こうした日本における現象は、ヨーロッパにおけるナショナリズム発生と共通する部分があると著者は述べる。
一般化すると、文明の中心にはナショナリズムが起きにくい、むしろそれは周辺部から始まるという傾向が指摘できます。中心部は最後です。もう一つ例を挙げると、オスマン帝国では、周辺部のエジプト、ギリシア、さらにセルビアが独立してゆき、二〇世紀の初めに帝国が解体する頃になってようやく、トルコ人のトルコをつくろうという青年トルコ党が出現する。中国でナショナリズムの出現が遅かったのもオスマン帝国によく似ていると思います。(106頁)
中心ではなく周辺からナショナリズムは起こり易い。東アジアで考えれば、なぜ中国ではなく日本でナショナリズムが高揚する時期が早かったのか、を説明する上で説得的な一つの仮説と言えるだろう。
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