著者の書籍は含蓄に富んだものが多い。情報産業に焦点を当てて、いくつかの論考をまとめたものが本書である。では、情報産業とは何か。そこには第一次産業・第二次産業に続く第三次産業の特徴として見出される。
この虚業意識が、なんらかの意味で実業に対する劣等感を内包しているとすれば、それはつまらないことである。まさに、実質的なもの、あるいは商品はあつかわれないというところに、情報産業の特徴があったのだ。その特徴あるがゆえに、情報産業は、すべての工業的物質生産および商品的商業をむこうにまわして、独自の存在であることを主張しえたのである。(40頁)
商品として扱われないものを商品とするのが情報産業であると著者はしている。こうした情報産業は、第一次産業や第二次産業とどのような関係を有しているのであろうか。
人類の産業史は、いわば有機体としての人間の諸機能の段階的拡充の歴史であり、生命の自己実現の過程であるということがわかる。この、いわば人類の産業進化史のながれのうえにたつとき、わたしたちは、現代の情報産業の展開を、きたるべき外胚葉産業時代の夜あけ現象として評価することができるのである。(43頁)
産業の進展を、生命の進化の過程と結びつけて著者は捉えている。ここで情報産業を形容している外胚葉という言葉が専門的にすぎるという批判に対して、著者は後の論考で解説を加えている。
もっとも単純化していえば、内肺葉からは消化器官系がつくられ、中胚葉からは筋肉がつくられ、外胚葉からは脳神経系、感覚諸器官がつくられる。「情報産業論」では、この三肺葉の分化を、人類史における産業の発展の三段階に対応させているのである。すなわち、最初は消化器官系の機能充足をはかる食料生産が主となる。つぎに、筋肉系の機能の充足をはかる物質・エネルギーの生産が主力となる。最後に、脳神経系、感覚諸器官の機能充足をはかる情報の生産が主力となる、という議論なのである。(62~63頁)
こうしたアナロジーをもとにすることで情報産業の本質が分かり、従来の産業との差異が明確になる。第一次産業や第二次産業が古くて必要性が減衰しているということではないことは、このアナロジーを見れば明らかだ。情報産業という新しい産業が生まれることによって、従来の産業の意味付けが変化し、新しい意味合いを持つようになるということが変化の本質であろう。
では、「ものではない」ものにどのように価格を付けるのか。情報産業における価格の論理に関して、著者の舌鋒はさらに鋭くなり、お布施をもとにその特徴を述べている。
お布施の額を決定する要因は、ふたつあるとおもう。ひとつは、坊さんの格である。えらい坊さんに対しては、たくさんだすのがふつうである。もうひとつは、檀家の格である。格式のたかい家、あるいは金もちは、けちな額のお布施をだしたのでは、かっこうがつかない。お布施の額は、そのふたつの人間の社会的位置によってきまるのであって、坊さんが提供する情報や労働には無関係である。まして、お経の経済的効果などできまるのではけっしてない。(49~50頁)
極端な例で言えば、前者については、情報の出し手が社会的に評価が高い人であれば、その情報は高く売買され、その逆も然りということになるのであろう。後者では、情報を活用する側は、他者の目を気にしながら価格を決定しようとするということを指摘していると言えるだろう。いずれのケースにおいても、同じ情報であっても価格が異なるということである。
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