2016年5月15日日曜日

【第578回】『脳と仮想』(茂木健一郎、新潮社、2004年)

 著者の初期の作品は、脳科学の知見を文学作品として描かれているようで、趣深く、かつ噛み締めながら読むことができる。久しぶりに読んで、改めて、考えさせられることが多かった。

 漱石が赤シャツであるということに気がつくことで、『坊っちゃん』は私の心をより深いところで傷つけ、それだけ印象深い芸術作品になったのである。
 身体の傷と同じように、すぐれた芸術作品による心の傷も、その傷が深ければ深いほど、その治癒のプロセスに時間がかかる。私はこれから長い間、『坊っちゃん』において漱石が赤シャツであることの痛みを感じ続けることになるだろう。(74頁)

 痛みとは、自分自身が経験するものに限らない。文学や芸術作品から痛みを受け、そこから治癒するプロセスにも意味があるという。作品に対して、受動的だけではなく、能動的に働きかけることで、そこで何らかの引っ掛かりを受けること。そうした引っ掛かりによって得た傷を治す過程が、個人に対して変容を与える。

 再編成の結果新しいものが生み出されるプロセスを、人は創造と呼ぶ。素晴らしい経験をすると、自らもそのような何かを生み出したくなる。適当な形で心が(脳が)傷つけられることで、その治癒の過程としての創造のプロセスが始まる。
 脳は、傷つけられることがなければ、創造することもできないのである。(76頁)

 傷つけられたという主観的な経験を基にして、脳は、再編成を試みる。そうした再編成のプロセスを続けることが、私たちに当初は思い浮かばなかった新たな気づきを与える。そうした気づきは、自分自身にとって新しいものであるばかりではなく、ともすれば、他者にとっても新しい価値を創造することにつながる。

 仮想によって支えられる、魂の自由があって、はじめて私たちは過酷な現実に向かい合うことができるのである。それが、意識を持ってしまった人間の本性というものなのである。(82頁)

 傷つけられて、再編成を行うことで、創造的に仮想を描き出すことができる。そうした仮想によって、私たちは、時に厳しい現実に対処するヒントを得られることができるのであろう。

 この世界は、お互いに絶対的にのぞき込むことのできない心を持った人と人とが行き交う「断絶」の世界である。世界全体を見渡す「神の視点」などない。あるのは、それぞれの人にとっての「個人的世界」だけである。これらの「個人的世界」は、原理的に、絶対的に断絶している。その断絶の壁を超えて、私たちはかろうじてか細い人を結ぶ。その時、他者の心は、断絶の向こうにかろうじて見える仮想として立ち上がる。(159頁)

 仮想とは、自分自身がこの世で生きるためのみに必要なものではない。そうではなく、事実として分かり得ない他者と共有する何かを紡ぎ出すためにも重要なものである。共通の事実を積み上げるだけではなく、共有できる仮想をお互いに創り出そうとする努力が、自身と他者の相互に安心をもたらすものなのかもしれない。

 一つ一つの言葉にまとわりついている「思い出すことのできない記憶」に思いをはせるとき、そこには、夏目漱石が好んだという、「父母未生以前本来の面目」という禅の公案と同じ世界が開かれる。私たちが言葉を使うということ自体が、過去の膨大な人類の体験の総体に思いをはせる行為でもある。
 だから、未来志向であることと、過去の歴史を尊重するということは、矛盾することではなく、一つの生きる態度になり得るのだ。(182~183頁)

 自己と他者という空間軸の広がりに加え、時間軸においても仮想は重要だ。とりわけ、未来を思い描くということも大事ではあるが、そのためにも、過去の歴史を尊重するという謙虚な態度が大事であるという視座を持ちたいものだ。過去を謙虚に振り返ることが、翻って、私たちの未来を描き出すことに繋がるのではないだろうか。


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