2016年6月25日土曜日

【第590回】『ハード・シングス』(ベン・ホロウィッツ、滑川海彦・高橋信夫訳、日経BP社、2015年)

 九〇年代後半にインターネットを初めて体感した時分、ブラウザといえば「ネスケ」、つまり、ネットスケープであった。そのネットスケープが、マイクロソフト擁するIEと市場でしのぎを削っていた時期に、著者は同社でウェブサーバーの開発を担っていたという。その後、同社の売却後にベンチャーを立ち上げ、様々な困難(ハード・シングス)に直面しながら苦闘を続けて得られた生きた教訓が惜しげもなく披瀝されている。たとえば以下のような言葉だ。

 ひとりで背負い込んではいけない。自分の困難は、仲間をもっと苦しめると思いがちだ。しかし、真実は逆だ。責任のもっともある人が、失うことをもっとも重く受け止めるものだ。重荷をすべて分かち合えないとしても、分けられる重荷はすべて分け合おう。最大数の頭脳を集めよ。(98頁)

 この言葉は、ベンチャーのトップとして発信されたものではあるが、担当者レベルでも噛み締められるものであろう。自分自身が責任者として担っているプロジェクトであれば、自身が最もそのプロジェクトに知悉しているために、困難に対しても自分自身で解決しなければならないと思いがちだ。しかし、傍目八目という言葉にもある通り、プロジェクトに近すぎるためにすぐ見えるはずの解決策が見えないということはよくある。現状を厳しく見ることは重要だが、その責を過度に背負い込むのではなく、周囲に共有したりエスカレーションすることが、自分にとっても、また組織にとっても望ましい。

 次に、人材開発と組織開発の観点から興味深かった点を取り上げる。まずは人材開発から。スタートアップにおける教育プログラムに求められる二つの方法として挙げられているが、人材開発に積極的ではない多くの企業にとって参考になるだろう。

  • 機能教育を新規採用の条件にする。アンディ・グローブ曰く、マネジャーが社員の生産性を改善する方法はふたつしかない。動機づけと教育だ。よって、教育は組織のマネジャー全員にとって、もっとも基本的な要件である。この要件を強制する効果的な方法のひとつは、採用予定者向け教育プログラムを開発するまで、その部署の新規雇用を保留することだ。
  • 自分自身が教えることで、マネジメント教育を強制する。会社のマネジメントはCEOの職務である。すべてのマネジメントコースをCEOが教える時間はないだろうが、経営陣に求める要件のコースは教えるべきだ。なぜなら、それはCEOの期待にほかならないからだ。ほかのコースは、CEOのチームでもっとも優秀なマネジャーたちを選んで教えさせることによって、教育活動への貢献を誇りに感じるように仕向ける。そして、これも強制にする。(160~161頁)

 現場の人事を担当していると、採用には熱心だが教育には熱心でないマネジャーがいかに多いかに直面する。現場のマネジャーが嘱望する知識と経験のある中途入社社員であっても、入社後の教育は必要不可欠だ。即戦力などというものは少なくとも企業組織ではほぼ幻想であり、持っている知識と経験と、現場で求められるものには差分があるものだ。どこに差があるかを明確にし、それを埋める方策を考え、遂行することが、現場で求められる教育である。そうであるからこそ、入社後の教育を採用の付帯条件にするという著者の指摘は、シンプルにして的確なものである。

 また、トップ自らが率先垂範して教育を行うという点も刮目すべきだ。ジャック・ウェルチの頃からトップによる教育の重要性が謳われてきたが、GEのような超大手企業でないスタートアップでも同様であるという指摘は重要だ。さらに言えば、トップ自らが教えることと、その下のマネジャーが教えることを、HRは支援する必要がある。マネジメントが動かないからといってHRが何もしないというのは、職務放棄でしかない。自戒を込めて、心に強く留意したい至言である。

 次に、人材開発とセットで取り組むべき組織開発についても引用してみたい。とりわけ、組織デザインに関する指摘が参考になる。

 組織デザインで第一に覚えておくべきルールは、すべての組織デザインは悪いということだ。あらゆる組織デザインは、会社のある部分のコミュニケーションを犠牲にすることによって、他部分のコミュニケーションを改善する(262頁)

 そう、すべての組織変更には、ProsとConsが生じる。言われてみれば当たり前だが、断言されると組織替えに伴うデメリットに対する心の余裕ができるから不思議だ。では、ProsとConsをどうバランスして組織デザインを行うべきなのか。ありがたいことに著者は、263~264頁で以下の六つを挙げている。

  1. どの部分にもっとも強いコミュニケーションが必要か。
  2. どんな意思決定が必要なのかを検討する。
  3. もっとも重要どの高い意思決定とコミュニケーションの経路を優先する。
  4. それぞれの部門を誰が管理するかを決める。
  5. 優先しなかったコミュニケーション経路を認識する。
  6. あるコミュニケーション経路を優先しなかったことから生じる問題を最小限とするよう手を打つ。

 それぞれの観点から検討する必要はあるが、私たちが腹を括らなければならないのは、メリットの背景にはデメリットがある、という点である。したがって万能な組織デザインは不可能であるのだから、どのメリットに重きを置き、必然的に生じるデメリットをどうケアするかを考える必要がある。加えて、組織を変えるタイミングだけではなく、その後の日常におけるコミュニケーションにおいて、ケアし続けることを留意しなければならない。


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