2011年2月11日金曜日

【第12回】『肉食の思想』(鯖田豊之著、中央公論新社、1966年)

著者の問題意識は、日本人はなぜ肉食ではないのかという点であり、それはヨーロッパ人がなぜ肉食になったのかという問いと関連している。

たしかに、日本でも多くの牛肉や豚肉が消費されているが、著者によればそれは「肉食」ではないという。たとえば、ヨーロッパでは家畜が身近であり市場には解体された動物をよく目にする。それに対して、日本の市場ではそうした光景を目にすることはあまりない。私自身、小学生時代に教科書で豚の屠殺の描写を読んだ際に違和を感じたものだった。動物や自然に対する感謝の気持ちを涵養するための題材であったのであろうが、率直に記せば「気持ちが悪い」ものだったように記憶している。こうした違いが、肉食の社会であるか否かの違いであると著者は主張している。

著者によればその背景にはヨーロッパと日本における農業観の違いがあるという。日本の水田耕作をヨーロッパにおける麦作と対比するのは正しくなく、麦作と家畜飼育とを併せたものと比較することが正しい。耕作面積の大きな違いがその理由である。つまり、耕作面積が日本と比べて大きいヨーロッパでは家畜に頼らざるを得ないのである。したがって、ヨーロッパにおける家畜の存在は人間と身近である。

では、こうした環境要因がどのように思想に影響を与えるのであろうか。

身近な存在である家畜を食用に殺さなければならないという心理的ストレスを解消するために、人間と動物との間が明確に区分けする宗教が生み出された。その証左の一つとして旧約聖書が挙げられるだろう。日本の神話では神々が動物と対等に話し合う場面が少なからず存在するのに対して、旧約聖書ではそうした場面はほとんどない。その数少ない例外は、エデンの園で蛇がイヴを誘惑する場面である。これが人間の堕落に繋がるというストーリー展開を考えれば、動物がポジティヴに描かれていないことは自明だろう。

このような人間と動物とを明確に分ける断絶の論理は人間社会の中の断絶にも影響を与える。端的に記せば階層意識である。

その証拠として著者が提示しているのは支配階級の総人口に対する比率の比較である。1819世紀における、日本の支配階級(武士)が総人口のうちで56%であるのに対して、フランスの支配階級(僧侶および貴族)の比率は0.50.6%である。この理由として、日本の支配階級のうちには「武士はくわねど高楊枝」と言われるような富裕でない層が入っていることが考えられる。つまり、日本では同じ階級の中でも断絶の度合いが厳しくなく、緩やかに括られているのである。それに対して、ヨーロッパでは階級が厳密に峻別されており、上位の階級と下位の階級との差は大きい。

階層意識は社会意識に影響を与える。その一つの例は近代化に至る過程における彼我の違いに見出せるだろう。

まず日本における近代化は明治維新という武士階級という単一の階級の中における争いによるものであった。つまり、武士以外の階級は近代化に対して主体的な行動を起こしていない。

他方、ヨーロッパにおける近代化は、「市民」革命という名称からも明らかなように、階級間の闘争の結果として実現されたものである。いうなれば、既存の身分制を打破して、階層意識の近代化をはかる結果としてのものであったのである。それが、国家意識や国民意識へと影響を与えていると言えるだろう。

最後に少しだけ私見を述べたい。

本書が上梓されたのは「国民総中流」時代であり、それから約半世紀が経った現代の社会背景は当時と大きく異なる。特に大きな違いはナショナリズムではないだろうか。

もちろん、ナショナリズムへの盛り上がりは当時もあったのであるが、それは主として学者やマスコミをはじめとしたインテリゲンチャが主流であった。それに対して、現代では、三浦展さんの『下流社会』によれば「下流」である人ほどナショナリズムへの共感度合いが高いという。これはいったい何を意味しているのであろうか。

下流層のナショナリズムの高揚という社会意識の背景には階層意識の相違の進展があるのではないだろうか。つまりは、下流と中流、上流との差異が大きくなっているのではないか、という仮説である。

さらに、本書が書かれた時代においては日本という国家自体が高度成長という高揚感に溢れていた。しかし、現代ではそうした社会の高揚感もない。その結果として、将来に対して希望をより持ちづらい層においてナショナリズムの高揚現象が生じている、と言えるのではないだろうか。

<参考文献>
三浦展『下流社会』光文社、2005
小熊英二『<民主><愛国>-戦後日本のナショナリズムと公共性』新曜社、2002





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