2013年6月8日土曜日

【第164回】『まなざしの地獄』(見田宗介、河出書房新社、2008年)

 本論考は、1960年代に青森の中学を卒業して集団就職で東京に出て、十代で連続殺人を犯して死刑囚となったN・Nへのインタビューをもとに書かれている。東京に出てきてから殺人へと駆り立てられるN・Nの心境の経緯を通じて、当時の社会を描き出す力作である。著者は、社会学を「関係としての人間の学」と定義づけており(『社会学入門』を参照)、関係性から透けて見える社会が論じられている。

 自身の生い立ちに負い目を感じていたN・Nは過去を断ち切ろうと期待を抱いて東京へと出た。当時は地方から東京へ出てくる中卒者を「金の卵」と呼んで、重宝されたことは周知の通りである。しかし、それはあくまで「卵」としての、つまりは新鮮な労働力である限りにおいて評価されるにすぎず、摩耗した後は評価されないという企業の論理が色濃く反映されたものだったと著者は指摘する。「金の卵」とは企業の視点に立った使い勝手の良い表現であり、個人の側から抱くイメージとは全く異なるものだったと言えよう。

 このようなマクロの要素から生じる意識のギャップに加え、過去を断ち切れない関係性にもN・Nは苦しむこととなる。過去が現在を呪縛するという表現がよくなされるが、これはなにも過去自体が自身を縛るわけではない。そうではなく、過去の自身の出来事に対する他者のまなざしが自身の意識を縛り続けるという側面を説明するものである。こうして、様々な他者からの絶え間ざるまなざしが、N・Nを過去の時点から解き放つことなく、将来に至るまで規定するように彼には感じられたのである。

 「金の卵」という替えの利く存在としてポジティヴなまなざしを向けられず、また時に自身の生い立ちにコンプレクスを想起させるネガティヴなまなざしばかりを意識させられる。こうした、本論考のタイトルでもある「まなざしの地獄」により、N・Nは、生理的な飢えは十二分に満たしながらも、自身の肯定的な存在感に対する渇望をおぼえることとなる。「自己の社会的アイデンティティの否定性」もしくは「存在の飢え」という著者の表現が言い得て妙である。

 本論考の主張は、初出から四十数年が経った現代にどのように活きるのか。まなざしの形態はたしかに時代とともに変容したが、まなざし自体が存在することは変わらない。当時は他者からの問いかけというリアルなまなざしであったが、現代ではネットという「あちら側」でのまなざしを、私たちは積極的にも消極的にも意識している。人間と人間の関係性を社会と呼ぶ以上、以前の関係性はかたちを変えても継続するものである。


 そうであるからこそ、環境変化が激しい中において、複雑な事象を明らかにするために社会学という横断領域的な知性が果たす役割は大きいだろう。しかし、著者は社会学がこうした学際性を持つことは結果論にすぎないという。むしろ、対象を誠実に追求するが故に、やむにやまれず横断領域的な知性にならざるを得ないという。こうした著者の姿勢には頭が下がる思いであり、常に心に留めておきたい至言である。


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