2013年6月2日日曜日

【第163回】『幕末史』(半藤一利、新潮社、2012年)


 江戸幕府から明治政府への政治主体の交代。この史実をもって、幕府を賊軍とみなし、新政府軍を官軍とみなし、後者を礼賛するという文脈でのみ歴史を語ってよいものなのか。本書を編むに至る著者の根源的な問いはここにある。さらに、薩長を中心とした明治政府の行動原理が、昭和初期の太平洋戦争へと至る萌芽をみることができると著者はしている。

 第一に、薩長同盟に至るまでの京都における攘夷論の隆盛について。著者は思想に熱狂的になることの危険性を攘夷論に見出している。攘夷論は、陽明学や朱子学といった江戸期における学問をバックボーンに持っているものではない。にもかかわらず、「なんとなく」「時代の雰囲気」で多くの志士と呼ばれる人たちが攘夷を叫び始め、京都で多くの血を流す運動になった。運動が先行して盛んになり、運動を行うが故に攘夷という言葉を叫ぶというロジック。これは、中国やアジアへの侵略という運動を正当化するために大東亜共栄圏という言葉を編み出した昭和初期と相似形である。

 第二に、修好通商条約に基づいて兵庫の開港を求めてきた欧米列強への対応を求める一橋慶喜に対する孝明天皇の大会議における対応を見てみよう。自身の攘夷的感情を覆してでも、皇統を第一に、万民を苦しませたくないという理由を第二に挙げて、開港やむなし、という判断を下したという。これもまた、終戦時における昭和天皇の対応と同じ形式である、と著者はしている。

 第三に、戊辰戦争時における東進する薩長軍(西軍)の進軍について。時流を第一に重んじる一方で、疲弊する兵隊や欠乏しがちな兵糧を気にせずに進軍をし続けた。その結果、年貢米を各地で調達し、連戦連勝の気運によって各地で援軍を得ることで、江戸までたどりつけた。こうしたロジスティクスを度外視した現地調達主義は、アジアや中国大陸での戦略なき根性主義による敗北という太平洋戦争に通ずる考え方と言えるだろう。

 最後に台湾征討を挙げる。陸軍中将であった西郷従道が、佐賀の乱を平定した後にそのまま台湾に向かい、戦争をしかけたものである。ここでは、新政府が軍事行動を中止させようと当時の最高権力者である大久保利通を長崎へ向わせたのにも関わらず、西郷は「もし外国が抗議してきたら、われらは朝命に逆らって渡台していった脱監の賊であるあると答えたらよろしかろう」といって無視したという。軍事行動を起こしたらあくまで当初の予定通りに完遂する。この論法は満州事変の際における関東軍の参謀であった石原莞爾と同じ論法である。さらには、内閣制度ができあがる前に、軍隊の形式が事実上できあがっている明治政府の礎自体が、後の戦争へと繋がっていると考えるのは邪推であろうか。

 歴史は繰り返すという格言は、過去のある事象によって必然的に現在の事象が導き出される、という運命論的な文脈で捉えるべきではない。歴史から学ぶこと。失敗から教訓を導き出すことも大事であるが、成功した要因を冷静に分析することも大事だ。成功の復讐と呼ばれるように、過去の成功要因に拘泥して現在の変化に気づかずに、致命的なミスに繋がることが多いからだ。歴史とは国民国家にとってのフィクションであり、「全ての人にとって客観的に正しい歴史」など存在しないのであるから、せめて、謙虚な姿勢で、歴史と相対したいものだ。


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