孔孟に対して老荘と対比的かつ同一的に捉えられることの多い老子と荘子。本書では、中国思想の碩学である著者が、「入門」と銘打って、老子と荘子の相違に加え、論語との関連性にも触れながら易しく解説してくれている。
冒頭では、2009年1月に北京大学に寄贈されたほぼ完本の『老子』竹簡群をもとに、従来の『老子』とは異なる解釈がなされてきた背景が説明される。
従来、『老子』の思想は、儒家に遅れて成立したものであり、「アンチ儒家」の思想だととらえられてきた。しかしそれは、後世のテキストに手が加えられて、そのように解釈されたためではなかったかという可能性すら出てきたのである。(71頁)
老子は、論語を否定する存在と考えてしまうが、それは、後世の人々がそのような意図で編集したり新たに書を著したために、現代の私たちが理解しているだけなのかもしれない。もちろん、論語と老子との間の考え方の違いは大きいと思うが、違いにだけ焦点を当てる読み方は避けるべきなのだろう。
『老子』は、無や無為とは言いながら、何もするなと言っているわけではない。無為であるからこそ、為さないことはない、という。少し言葉を補えば、無為にしているように見せかけることによって、実はすべてのことを成し遂げているという意味にもとれる。逆説的な、見方によっては、実に老獪な思想である。(94頁)
無為自然は老子の一つの有名な考え方である。学問を否定し、知識を無意味だという。しかし、このような老獪な考え方というのも面白い。何も為さなくてもいいというのではなく、何も為していないかのようにみせる、という考え方は興味深い。
【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)
【第915回】『老子の教え』(安冨歩、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年)
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