2019年7月7日日曜日

【第966回】『社会学史』(大澤真幸、講談社、2019年)


 新書ではあるが、ざっと一読して中身を理解できるものではない。少なくとも私にとってはそうであった。しかし、難しいことは悪いことではない。わかりやすさを求める姿勢にこそ、問題があるものではないだろうか。

 社会学は、「近代社会の自己意識の一つの表現」なのです。近代社会というものの特徴は、比喩的な言い方をすれば、「自己意識をもつ社会」です。自分が何であるか、自分はどこへ向かっているのか、自分はどこから来たのか。それが正しい認識かどうかはわかりませんが、近代社会とはこういう自己意識をもつ社会です。(3-4頁)

 このように言われると、自己意識を持たない社会とは何か、ということが考えられる。おそらくは、本書でも示唆されるが、神という絶対的な存在との関係性の中で自分を位置づけていた社会ということであろう。つまり、近代とは、神から人間が自立した社会であり、その結果として自分という存在に対して意識を持つ社会である、ということなのであろう。

 ヴェーバーは学問をやることで鬱と戦っているわけです。だから、時代の病としての鬱に対して、それに拮抗する精神の営みとして社会学がある。(16頁)
 
 神から自立した社会では、自立できるかどうかが問題となる。自立するための病の一つとして、鬱病が取り上げられている。鬱との戦いを、社会学という手段によって対抗しようとしたのがマックス=ヴェーバーということのようだ。本書でも説明されているように、ヴェーバーは、鬱を発症してから後に社会学の嚆矢とも形容される様々な代表作を発表している。

 少し気取った言い方をすれば、現実の社会秩序に他性を対置する認識なしに、社会秩序はいかにして可能か、という問いはでてきません。言い換えれば、社会学を成立させているのは、通常のものの「不確実性」(ありそうもない)の感覚なのです。(22頁)

 近代以降の私を取り巻く不確実性。それは不自由なものではなく、近代以降の自由主義の生み出した、可能性としての存在なのかもしれない。


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