2018年12月23日日曜日

【第915回】『老子の教え』(安冨歩、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年)


 著者といえば論語だと勝手に思っていた。『超訳論語』は面白かったし、『ドラッカーと論語』も卓抜で何度も読み直している。そんな著者が老子を扱うというのは意外な感があったが、『超訳論語』のようなテーストの書籍である。大胆な意訳や編集がありながら、本筋を押さえて著者の考えを押し出している意欲作である。

あなたが何かにおびえているとしたら、
それはただ、ものごとの名におびえているだけではないだろうか。
あなた自身が作り出した名に、おびえているだけではないだろうか。
そのことを理解すれば、
あなたは、意味のわからぬ不安から解放されるはずだ。(21頁)

 現象を名付けることでこぼれ落ちる何かがある。老子は名前をつけ、言葉で表現することの限界を繰り返し述べているが、その内容を踏まえているのがこの引用部分である。さらに、ここでの不安は、安定思考を否定する以下の引用箇所にもつながる。

確かなものにしがみつこうとするから、
確かなものに頼ろうとするから、
あなたは不安になってしまう。

あなたには、そのあやうさを生きる力が、与えられているというのに。(23頁)

 私たちは安定を求め、「確かなもの」を見出そうとするために不安を抱く。ある程度の安定はたしかに重要であろうが、それを過度に求め、安定に依存することは、翻って私たちを縛ってしまう。それはあたかも疎外状況である。

 では私たちに求められる態度はどのようなものか。著者は「世界をありのままに見る」ことを指摘する。

冷静さとは、根源に帰るものとして世界を見ることである。
根源に帰るとは、世界をありのままに見ることである。
ありのままの世界を知ることを、「明晰」という。
ありのままの世界を知らぬことを、「迷妄」という。
迷妄は凶悪な事態に帰結する。

ありのままの世界を知れば、寛容になる。
寛容であれば、公平になる。
公平であれば、王たるにふさわしい。(71頁)

 最後の王云々というくだりは、老子の中で時折現れる唐突感のある言葉であるが、ここでは気にしないこととする。ただただありのままに世界を眺めるという態度はすごい。ありのままに見るということは価値判断を下さないということであるから、他者に対して社会に対して寛容でいられるのであろう。


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