2012年10月6日土曜日

【第114回】『自己啓発の時代』(牧野智和、勁草書房、2012年)


 著者は現代の日本を後期近代と位置づけて論調を進めている。では、そもそも「後期」の前にあり、その基底を為す近代における社会のあり方とはなにか。その特徴として著者は、国民国家の介入や科学的知識が国民に浸透し、それがヒト・モノ・情報の流動性の上昇と相俟って、共同体の内部に保持されてきた慣習や伝統が相対化される社会としている。端的に言えば、旧来の土着の慣習や伝統の価値が相対化される、ということである。

 それに対して後期近代とは、あらゆる行為や関係性や制度のあり方が「本当にこれでよいのか?」と省みられるようになる。その結果として「さまざまな行為の前提が揺らぎ、そして自らの行為の結果が次なる行為の条件を形成するまでに社会的流動性が上昇した社会」が後期近代である現代日本社会である。つまり、近代では価値が相対化され諸文化が並立していたのであるが、後期近代においてはその個々の価値に基づく行動を起こした自己に対する絶え間ない内省がなされるようになった。

 このような何でも自己の内面に惹き付けて考えてしまう現象について、フーコーの四つの概念を用いて著者は捉える。第一は倫理的素材であり、これは「自分自身のどの部分と向き合い、自己実践の素材とするのか」という観点である。第二の服従化の様式とは、「どのような様式や権威にもとづいて、「自己の自己との関係」を定めていくか」という観点。第三の観点として倫理的作業が挙げられており、これは「どのような手続きを通して自分に働きかけていくのか」という観点である。最後の第四の観点は目的論と呼ばれ、「自己実践を通して、どのような存在様式を最終的に目指すのか」という観点を示すものである。

 このようにフーコーを理論付けとして用いながら、あらゆる現象を自己の内面に惹き付けて考える人々の現象を、具体的に三つのメディアを用いて著者は分析している。

 まず自己啓発書と呼ばれるジャンルのベストセラーを分析の対象とし、「自己啓発」に関する言説構造の歴史的な変遷を取り上げている。ここで私たちが気に留めるべきは、現代における自己啓発書の書き手が、常に自分自身が読者に対して優位に立てるしくみを設けている、という指摘である。ここ十年の自己啓発の著者は、自身が解く法則と、読者がそれを受けて行う実践とを区分して記し、読者の成果が出ないことに対して実践の不備を指摘し、著者の法則の正当性を防御する構造を設けているのである。つまり、読者が成果がでないのは読者の実践不足のせいであり、自己啓発書の著者の提唱する法則に瑕疵があるのではない、ということである。こうした自己啓発書の著者が必ず読者に対して優位に立てる黄金律を著者は「万能ロジック」と形容している。昨今の自己啓発書に目を通した方には首肯できるのではなかろうか。

 次に著者が俎上に乗せているものは就職用の自己分析マニュアルである。著者の分析によれば、就職活動において学生が取り組む自己分析じたいは数十年前から行われていたそうだ。しかし、現代におけるその大きな特徴は、分析内容が自分自身の価値観や性格といった内面に傾注しすぎる点である。こうした傾向は、社会的な背景と自己分析用書籍とが相互に影響を与え合うことで循環構造を持っている。すなわち、採用市場が悪化し学生が好むポジションの採用枠が減少することで、学生側は是が非でも受かるために自己分析に力を入れるようになる。他方、そうした学生側のニーズを受けてメディア側が自己分析をマニュアル化し、作業課題を定型化することで「本当の自分」や「やりたいこと」を導出し、エントリーシートに落とし込む作業の自動化を促進する。こうした両者の相互影響により、学生を過剰に自身の内面に向き合わせる構造ができあがる。この構造が先述した万能ロジックと相俟って、自身の希望通りに就職できない学生を、自身の自己分析に努力が足りないと思わせ、病的に自身を内省させる悪循環へと導いている、と考えるのは思い過ごしであろうか。

 三つめとして、女性のライフスタイルの言説の変遷が取り上げられており、具体的には『an・an』が分析されている。私自身が『an・an』をはじめとした女性向けの雑誌に目を通したことがないためここでは著者の著述のみを用いる。著者によれば、二〇〇〇年代の『an・an』がたどりついた構造として、「日常生活のあらゆる事項を内的な自己変革・強化等の呼び水」とすることで、「「自己の自己との関係」を自ら調整・コントロール可能とする、またそれを望ましいとするような「自己の体制」」を構築したという。この分析結果からすれば、女性向けの「ファッション」誌が、外的なファッションについてではなく性格・相性・キャリア・価値観診断といった内面に焦点を置いている点は興味深い。

 こうした三つの自己啓発メディアの分析から、どのような読者層が対象であろうとも内的世界への働きかけを促していることが分かる。これは、フーコーの言葉でいうところの「自己の自己との関係」の調整自体を自己目的化させる構造を有していると言えるだろう。

 自己啓発メディアに警告を発しているように読めてしまうが、著者はそうではないと何度も述べている。自己啓発メディアの発する「自己の自己との関係」のしくみに基づく一種のゲームにうまく乗れる人はそれでか構わないと指摘している。その上で、ゲームにうまく乗れない、おそらくはマジョリティに対して、ゲームから抜け出す道を本書では狙っているそうだ。こうした誠実で筋の通った意図がありつつも、抑制的なものいいに終始する著者の姿勢は、学術書のスタンスとして、また世に意見を問うスタンスとして、読んでいて清々しい一冊である。

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