2012年8月25日土曜日

【第101回】『罪と罰(上・下)』(ドストエフスキー、工藤精一郎訳、新潮社、1987年)


 小学生の頃、我が家では朝食をとるまえに本を読むことが課せられていた。両親の知人からいただいた日本や世界の「名作シリーズ」が自宅にあったため、自ずとそうした本を読んだものである。日本書紀や古事記をはじめ、信長・秀吉・家康といった歴史上の人物の伝記を読んだのであるが、世界の名作シリーズについてはほとんど記憶にない。『罪と罰』も読んだと思うが、記憶があやふやであり、改めて読むことに少し抵抗はあった。しかし、そうした私の事前の不安を良い意味で裏切ってくれるストーリーで一気に読み終えた。社会風刺、恋愛小説、推理小説といった様々な要素をよくもうまく織り交ぜたものであると感心した。

 その中でも私が最も感銘を受けたのは生と死に対する描写である。最近、宗教学を学ぶ機会があった。そこで大学の先生が「宗教とは極限状態を経験した者にとって救いとなるものである」ということを仰っていたことが心の琴線に触れたようで強く記憶に残っている。本書のタイトルにもなっている通り、人がいかに罪を犯し、罰をどのように受け容れるか、ということは、私の日常的な生活では経験することがない。そうした人間にとって、極限状態をありありと仮想体験できるという作用が小説にはあるのだろう。そうした意味で、究極の状態において生と死をいかに考えるか、という点に惹き付けられたのであろう。

 とりわけ印象に残ったのは、罪を犯した後に生活することがどんなに苦しい状況であっても、死ぬよりも生きることを選ぶことを表す著者の以下の描写である。

 「ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話しだ、ーーまわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐ーーそしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、ーーそれでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ!」

 生き続けることが苦以外のなにものでもなくても、死を選択せずに生きる、ということは、生きること自体になにものにも替え難い美質が含まれているということなのだろうか。言葉にするのは難しいが、なぜか印象に残った表現であり、主人公がこの言葉を何度も述べていることを鑑みると、著者も重要なメッセージとみなしていたのであろう。

 こうした生への固執は、罪を犯した主人公が、その後ある男性の死に際して現れる。死を通じて生を思い出す。生きる活力を得て、その後の困難を乗り越えようとする。この場面では、そうした活力が自身の罪を受け止めずに、それを逃れようとするネガティヴな意図のものにはなってはいるものの、活力の再生には惹き付けられるなにかがある。

 生きる活力を得つつも、自身の犯した罪に苛まれる中で主人公は自死を考える。しかし、自死を選ぶことは自身の罪による恥辱から逃げる行為であると主人公は最終的に結論づける。続けて、恥辱を恐れて自死に走ることを避けることを、誇りと肯定的に言い切っている。これは開き直りというレベルの話ではないだろう。主人公の苦悩の様子を追体験することで、誇りとはなにか、人間の尊厳とはなにか、といったことを内省させられる素晴らしいテクストであった。

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