認知科学や生物学といった分野を専門とする著者が、ダンゴムシを通じて心的事象を明らかにする研究成果を、新書レベルの簡潔明瞭さにまとめあげたのが本書である。科学的に研究を行うとはどういうことか、を学ぶ上で本書は格好の材料であろう。私自身は社会科学の分野における研究を行ってきたが、本書を読み、自然科学の分野における研究も「科学」という点では基本的に変わらないと感じた。先行論文を論理的に位置づけ、その穴を埋めるような新機軸での問いを立て、実験を積み重ね、知見を客観的に論証し、実践的なインプリケーションを提示する、というアプローチは修士以降の研究に共通するのだろう。修士課程に進むかどうかを検討している学部生や社会人の方は、本書を読んでみて科学的アプローチへの自身の志向性を試してみることは有用かもしれない。
著者の研究における主たる問いは、題名にもあるように「ダンゴムシに心はあるのか」である。心の動きをどのように外的な事象として捉えるかは細かな問いを積み重ねている本書をお読みいただくとして、端的に「未知の状況」における「予想外の行動の発現」を「心の働きの現前」であると結論づけている。訳が分からない状況、俗にいえば「キャパを超える」ような状況の中で、突如として涙が出たり、大笑いしてしまったり、といった現象を著者は「心の働きの現前」と捉えているのである。
ではダンゴムシにとっての「未知の状況」における「予想外の行動の発現」とはなにか。著者はさらに細かな問いを設定しながら状況を特定していき、追いつめられたダンゴムシが壁を登る行動を導き出す。ここで重要な点は、なにが既知の状況で未知の状況かを見極めるためには、日常的に対象への注意を持続することが求められる、ということであろう。たとえば、私がダンゴムシを何匹か数分観察したとしても、当たり前の行動が分からないだろう。したがって、私にはダンゴムシが壁を登るという行動の非日常性が分からない。新しい知見を得るためには、毎日同じ観察をし続けるという「待ちの苦しみ」があり、結果が出るか分からない中でのいわば絶望的な忍耐が必要なのである。
こうした「予想外の行動の発現」が通常は顕在化しないということは、日常的な行動として適切ではない、ということである。これをダーウィニズムでは自然による不適合行動の切り捨てとして、自然淘汰と表現する。しかし、著者は実験結果からのインプリケーションとして、「予想外の行動の発現」とは「適応的でない行動の温存」であり、「潜在させておく」という「柔らかい側面」が生物にはあるのではないか、としている。心というものを考える場合には、著者のこうした「柔らかい」考え方も重要なのではないだろうか。
こうして得られた知見を著者は本書によって「さらして」いるのであるが、その前の段階として学会で「さらして」いる。著者は様々な分野の人の前で「さらす」ことの重要性を指摘している。実際、著者が本書の研究をベルギーでの国際会議で発表したそうであるが、その出席者のバックグラウンドは多様であり、発表後に著者へ熱心に質問してきたのは哲学者であったそうだ。その哲学者とのやり取りを繰り返す中で、自身の研究を相対化し、またそれ以降の研究の方針も明らかになったという。得られた知見について分野を超えてオープンにしていくこと。字義的には簡単なことに思えるが、実践するとなると難しい。しかし、そうしたチャレンジを繰り返すことが研究者に求められるマインドなのだろう。
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