2011年1月10日月曜日

【第7回】野内良三『偶然を生きる思想』日本放送出版協会、2008年

本書では日本と西洋の文化の相違から、その結果として偶然をどのように生きるか、について述べられている。日本と西洋の思想のどちらが優れているかという比較ではなく、両者を活用して偶然に対してどのように処すべきかについて述べられている。

認識論の背景には歴史観があり、結果的に偶然に対する日本と西洋での捉え方の相違が生じる。

日本人は歴史を川の流れのように循環するものと捉える。これは、四季という循環する自然環境を所与のものとして受け容れてきたことが背景として挙げられるだろう。また、環境を循環するものであると捉えるため、時に起こる予期できないことを無常として肯定的に意味を解釈するのである。

その結果、日本人は他者依存性による双方向的相互依存関係という縁起観を持つと指摘されている。つまり、現実に起きている事実を主観的に認識し、それを無常と捉えるのである。

それに対して、西洋では、歴史を構築物的な持続性のあるものと捉える。建築開始から既に百数十年を経た今でも建築中であるサグラダ・ファミリアが良い例である。始点から終着点まで線形的に論理的に流れる時系列を考えるため、予期できないことは避けるべきものであり、否定的に捉える。そうした出来事を引き起こす自然現象は、理性によって説明すべき対象であり、従属させるべきものと捉える。

その結果、世界は究極的実在にたどり着く因果律から成ると考える。したがって、現実に起きている背景にあるイデアの世界を客観的に認識し、その中で起こるイレギュラーなことは避けようとするのである。

こうした二つの視点から筆者はどのような結論を導き出しているのか。

筆者は、両者の視点を統合し、フレキシブルな目標をにらみながら積極的に偶然的なものと取り込むことを主張する。前者の目標志向は西洋的な観点であり、後者の偶然を受容することは日本的な観点である。そのためには謙虚なスタンスで世の中に自身を拓き、想像力を持って現実を後でストーリー付けることが大事であると筆者は主張する。

以下、誤読を恐れずに二点ほど飛躍的な解釈を試みる。

一つめの飛躍。筆者が主張するこうした偶然観は、クランボルツ教授が提唱するPlanned Happenstance Theoryに繋がるのではなかろうか。偶然性をベースとした理論がアメリカ(西洋)で生まれたことは興味深い。西洋で生まれたということは、偶然をどう避けるべきか、ということを着想としていると考えられる。しかし、その一方で謙虚さやオープンマインドネスを重視するクランボルツ教授の理論には洋の東西の思考方法を融合する萌芽を見出すことができるかもしれない。

だからといって、西洋人と日本人がPlanned Happenstance Theoryに見る風景は少し異なるだろう。西洋人は偶然が起こる前に発想の重きを置くのに対して、日本人は偶然が起こった後に発想の重きを置くのではないだろうか。つまり、西洋人は偶然を避けるために、また良い偶然を意識的に起こすために事前のアクションを行なう。それに対して、日本人は起こってしまった偶然はしかたがないものと受容して、それをもとにストーリーを創り上げる、ということである。これらは着眼点の相違であり、大事なのは、こうした二つの視点を同時に持つことであると、筆者の主張をもとに飛躍的解釈を展開してみた。

さらに飛躍する。こうした二つの視点を同時に持っている人物として私が思いつくのが、稀代の麻雀打ちである赤木しげるだ。といっても彼は実在する人物ではない。福本伸行さん(『カイジ』でも有名)が描く『アカギ』という麻雀漫画の主人公である。浦部との対戦で彼が見せた偶機待ちが、文字通り偶然性に関するイマジネーションを膨らませるのである。

赤木が偶機待ちに至る過程は一見して論理的に見える。しかし、本書を読んだ結果、赤木は事前の論理性とともに偶然を事後に活かす思想とを併せ持っていたのではないか、と考え直した。つまり、聴牌しているのにノーテン罰符を払ってまで手を見せなかったこと、四暗刻単騎のオープンリーチ、などは単に論理的な打ち手というわけではない。偶然の結果という意味合いもあるのである。偶機待ちを上がり切ったのは、偶然を受容し、その中でストーリーを事後的に見出したことの結実であり、これが赤木の力の真髄ではなかろうか。

<参考文献>
J.D.クランボルツ『その幸運は偶然ではないんです!』ダイヤモンド社、2005
福本伸行『アカギ(第6巻)』竹書房、1996





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