2011年1月3日月曜日

【第6回】『現代アート、超入門!』(藤田令伊著、集英社、2009年)

読書にはおおまかに二つの種類がある。得意であったり好んで学んできた分野の読書と、苦手であったり無知である分野の読書である。学生時代に図工や美術が大の苦手であった私にとって、本書は後者の読書経験に該当する。後者の読書は難しい一面もあるのであるが、既知の他の分野との意外な関連性やつながりを見出せたときのうれしさはひときわ大きいものである。

美術館にはよく行くが、現代アートは難物である。正直に白状すると、およそ理解不能と思えるものが多い。そうした私のような読者を念頭に置き、筆者は、現代アートは分かることが目的ではない、と述べてくれる。このような素人に寄り添って書いてくれる入門書というのはありがたい。

ではなにを目的として現代アートを鑑賞するのか。筆者によれば、作品を前にして「ああでもない」「こうでもない」と思いあぐねること自体が立派な鑑賞になっている、という。さらに、思いあぐねた結果としてわからなくても良いそうだ。これは私にとっては救いと言える言葉である。分からなければならないと思って鑑賞すると、意味がわからなかったときに不全感が残り、落胆してしまう。落胆すると現代アートを遠ざけてしまう。しかし、わからなくても良いという気構えで望めば気楽に鑑賞できる。

さらには、わからないことがわかることにも意義があると筆者は言う。この発想は、ソクラテスの「無知の知」を髣髴とさせる言葉のように感じられる。なにがわからないかをわからない状態は気持ちが悪い。しかし、わからない状態をわかる、つまりメタ認知を得られていれば対処のしようはある。わからないことがわかり、そのことで悩むことに意義がある、というのはキャリアを展望する際にも勇気を与える至言ではなかろうか。

また、現代アートは個別化が進んでジャンルで括ることが難解である。さらには、タイトルを「無題」とするものが多い。これらも現代アートの鑑賞を困難にする原因であろう。ジャンルはタイプによる識別を可能とするものであり、またタイトルは作者の意思を表すものであり、それらを手掛かりにして我々は作品を鑑賞する。そうしたジャンルやタイトルがないということは鑑賞する上での一つの軸を失うということを意味すると言えるだろう。

しかし筆者は、無題であるからこそ自由で主体的な鑑賞につながると主張する。ものは考えようとも言われかねない言葉のようにも捉えられるが、こうした態度が多様なインプット形式に繋がることは文学の世界でも述べられている。文芸評論家の柄谷行人さんは漱石に関する論考の中で、明治期に日本で生まれた近代小説という形式はそれまでのジャンルをディスコンストラクトする形式であると述べている。ジャンルを消滅させることで新しく多様な読書経験を可能としたことが漱石の文学上の貢献なのである。ジャンルで括ることが難しくなり、タイトルをつけることを意図的に避ける現代アートは、明治期の文学界に起きたことを想起させる。

では、アートであるということはどういうことなのか。筆者は、この問いに対して、ある作品がアートであるかどうかを決めるのは鑑賞者である、という回答を与えている。換言すれば、ある人にとっては価値のある現代アートであっても、自分にとって価値を感じないものであればそれはもはやアートではないのである。自信を持って、自分の好き嫌いで現代アートを鑑賞することを筆者は主張する。

それでは現代アートの価値は何だろうか。人によって受け止め方が異なる以上、現代アートはなんらかの固定的な価値を与えるものではない。私が本書を読んで考えたことは、現代アートとは問題提起を与えるものではないだろうか、という仮説である。問題提起は気づきを与える可能性を有する。作品を通して気づきを得られる人は、新しい価値観の拡がりに触れることができるのである。これが、主体的に、かつリラックスして現代アートに接することのメリットではないだろうか。

<参考文献>
プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波書店、1964
柄谷行人『定本 柄谷行人集 第1巻 日本近代文学の起源』岩波書店、2004





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